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年度 1997年

設問番号 第4問

テーマ 明治維新の基本政策/近代


問題をみる

設問の要求は,五箇条の誓文と5枚の高札(五榜の掲示)の文面が同時に手渡され,しかも両者が共通して対外関係について触れている理由。条件として,(1)で述べられている事実を踏まえることが求められている。

まず,「対外関係について触れている」というのだが,具体的にはどのように記されているのかを確認しよう。
≪五箇条の誓文≫
 一,旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
 一,智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
一般に“開国和親”と説明される箇所だが,そこでは攘夷意識を取りのぞき万国公法にもとづくことが表明されている。
≪五榜の掲示≫
 IV 開国和親の政策をとるので,外国人殺害を禁止する
「外国人殺害」とは攘夷行為である。

両者に共通しているのは,開国和親(欧米諸国との友好)という外交姿勢を明確化していること,攘夷行為の抑制・排除をはかろうとしていること,である。−−(ア)

次に,問題文(1)について。
 イギリス公使が襲撃される事件が発生(明治元年2月晦日)
 イギリスが外国人への暴行厳禁を命ずる新令を掲示するよう太政官に督促(3月12日)
ここから,攘夷行為が現実に発生していたこと,欧米諸国がその抑制を政府に求めていたことがわかる。−−(イ)

さて,(ア)と(イ)をまとめれば答案ができてしまいそうだが,そこで思考を止めてしまってはダメ。
問題文(1)に「太政官のなかでは,そのような新令(注:攘夷厳禁の法令)の掲示は外国人に屈したように見えるという意見がでて,直ちに決定ができなかった」(3月12日)とあるものの,問題文(2)にあるように3月14・15日には攘夷厳禁の姿勢が示されていることに注目して欲しい。“即日”という意味では「直ちに」ではないが,それでも2・3日後なのだから対応としては早い。「外国人に屈したように見えるという意見がで」たにもかかわらず,早い段階で攘夷厳禁の姿勢が公に示されるようになっているのだが,それはなぜなのだろうか。
当時,戊辰戦争の最中であったことを思い起こそう−五箇条の誓文が発せられた3月14日は江戸城総攻撃の予定日だったが,イギリスの反対もあり江戸城総攻撃はすでに中止され,無血開城が約束されていた−。欧米諸国の戊辰戦争への干渉を排除し,また明治新政府が欧米諸国から承認を受けるためにも,草莽層の攘夷行為への暴走は避けなければならなかったわけだ。


設問の要求は維新初期の民衆政策のあり方。条件として問題文(3)を手がかりとすることが求められている。

「維新初期」とあるが,いつ頃までを指すのかがきわめて曖昧。“問題文(3)を手がかり”というのだから,問題文(3)にある明治元年7月あたりまでを指すと判断しておくしかない。

さて,五榜の掲示に示された明治政府の民衆政策といえば,“江戸幕府の民衆政策を継承”につきる。とはいえ,それだけでは条件を満たすことができない。

問題文(3)を確認しよう。
●明治元年7月になって五榜の掲示が日本橋に掲示された。
●政府が掲示を督促した高札はIからIIIの3枚(これが幕府の民衆政策を継承したもの)。つまり,IVの攘夷厳禁,Vの草莽層の行動抑制は明治元年3月〜7月という期間の一時的な(時限的な)施策ということになる。

IVはイギリスの督促した攘夷厳禁の新令であり,Vは攘夷行為にはしる草莽層の発生を抑制しようとしたものでIVの前提となる規定。これらが一時的な施策とされ,7月段階では掲示を督促されなかったのは,政府内部にも存在した「外国人に屈したように見えるという意見」に配慮したものだと言える。
なお,イギリスの督促した攘夷厳禁の新令が攘夷厳禁の新令として単独に発令されたのではなく5枚の高札の1つとして出されたこと自体,「外国人に屈したよう」な印象を避けるという効果が意図されていたものと考えることができる。

ところで“明治元年7月”とはどのような時期だったか。5月に上野彰義隊を鎮圧し,そして江戸を東京へ改称したのが7月。つまり,明治新政府が江戸掌握を果たした時期である。しかし,ここまで細かな知識を出題者が求めているのだろうか。もしそうだとすれば悪問である(戊辰戦争の経過を年表として提示しておいてほしかったが)。したがって,そこまで配慮する必要はない。

というわけで,(a)江戸幕府の民衆政策を継承,(b)攘夷厳禁はイギリスの要請を背景とする一時的な(時限的な)施策,という2点が書ければよい。


(解答例)
A欧米から攘夷厳禁を督促された新政府は,戊辰戦争の中で欧米からの支持・承認を得る必要があったため,内外に対して開国和親の方針を明確化し,攘夷厳禁を民衆にまで徹底させる必要があった。
B旧幕府の政策を継承して儒教道徳の遵守,徒党・キリシタンの禁止を掲げると共に,時限的に攘夷厳禁を掲げて治安確保を図った。
【添削例】

≪最初の答案≫

A新政府軍は幕府軍との抗争中にあり,諸外国から新政権として承認を受ける必要があった。そこで,五箇条の誓文では諸外国に対して,五榜の掲示では民衆に対してそれぞれ開国和親を示した。

B新政府は対外政策として開国和親などの新体制を打ち出したものの民衆統制は江戸時代と何ら変わりはなかった。

> A新政府軍は幕府軍との抗争中にあり,諸外国から新政権として承
> 認を受ける必要があった。そこで,五箇条の誓文では諸外国に対し
> て,五榜の掲示では民衆に対してそれぞれ開国和親を示した。

設問では「(1)で述べられている事実を踏まえて」という限定がついているのですが,資料文(1)のデータが答案のなかに活かしきれていない。
なお,「五箇条の誓文では諸外国に対して」と書いているのですが,五箇条の誓文そのものは外国向けに限定されて発されたものではない(いわば内外両方に向けて発せられている)ので,そのように明言する必要はない。

> B新政府は対外政策として開国和親などの新体制を打ち出したもの
> の民衆統制は江戸時代と何ら変わりはなかった。

こちらも,設問のなかの「(3)を手がかりに」という限定に応えていない。
資料文(3)によれば,開国和親の方針を打ち出した高札(IV)は掲示を督促されていないんですから,その点を考慮した答案を作ることが必要です。

≪書き直し≫

A攘夷事件が発生し,欧米から抑圧要求があった新政府は,戊辰戦争下で欧米の支持が必要であったため,早急な対応を取る必要があった。そこで,内外に開国和親,民衆に攘夷禁止をそれぞれ示した。

B儒教道徳の遵守,徒党・キリシタンの禁止など旧幕府の民衆統制を引き継いだもので,攘夷厳禁は一時的な施策であった。

ともに O.K. です。