年度 2000年

設問番号 第1問


律令国家のもとでは,都と地方を結ぶ道路が敷設され,駅という施設が設けられて,駅制が整備された。発掘の結果,諸国の国府を連絡する駅路のなかには,幅12メートルにも及ぶ直線状の道路があったことが知られるようになった。

次の⑴〜⑸の文章を読んで,下記の設問に答えよ。

⑴ 山陽道(都と大宰府を結ぶ道)の各駅には20頭,東海道と東山道の各駅には10頭,その他の4つの道には駅ごとに5頭の馬を置いて,国司に監督責任を負わせた。

⑵ 反乱や災害・疫病の発生,外国の動向などは,駅馬を利用した使者(駅使)により中央に報告された。藤原広嗣の反乱の情報は,5日目には都に報告されていた。

⑶ 737年,疫病の流行と干ばつにより,高齢者などに稲を支給することを命じた詔が出された。但馬国が中央に提出した帳簿には,この詔を伝えて来た隣国の駅使と,次の国へ伝える但馬国の駅使に対して,食料を支給した記録が残されている。

⑷ 駅長(駅の責任者)は,調・庸・雑徭を免除され,駅馬や鞍の管理を行った。また,駅子(駅での労役に従事させるために設定した駅戸の構成員)は庸と雑徭を免除され,駅馬の飼育に従事し,駅長とともに,駅使の供給(必要な食料の支給や宿泊の便宜を提供すること)にあった。

⑸ 駅馬を利用する使者は,位階に応じて利用できる馬の頭数が定められていた。しかし,838年には,都と地方を往来するさまざまな使者が,規定より多くの駅馬を利用することを禁ずる太政官の命令が出された。

設問

A 律令制のもとで,駅は,どのような目的で設置されたと考えられるか。山陽道の駅馬が,他の道に比べて多いことの背景にふれながら,3行以内で述べよ。

B 850年に,太政官は,逃亡した駅子を捕らえるようにとの命令を出した。なぜ駅子は逃亡したのか,4行以内で説明せよ。