年度 1976年

設問番号 第2問


次の二つの文章を読み、下線部(A)・(B)・(C)・(D)に対応する四つの設問に答えよ。

 鎌倉時代の守護は、その主要な任務である軍事・警察の職務を行うため、国内の御家人を統率する権限を与えられていたが、守護と御家人との間には主従関係は存在しなかった。それに対し室町時代の守護大名は、国内の武士を従えてかれらと主従関係を結び、また任国を領国として支配するようになった。このような守護制度の変質は、足利政権や守護大名の政策にもとづくものであり、その際、(A)半済や守護請の制度は、守護大名が国内の武士を組織する手段として大きな役割を果たした。しかし、国内の武士が守護大名に従い、その家臣団に組織されるようになった基本的な要因は、(B)鎌倉末期以降顕著になった武士の社会的結合のあり方の変化にあった。

〔設問〕
(A) 半済とはどのような制度かを、60字以内で説明せよ。

(B) 鎌倉末期以降、武士の社会的結合がどのように変化したかを、主従関係の変化と関連させながら、150字以内で記せ。

 江戸時代の初期には、大名がとりつぶされたり、減封されたりすることが多かった。その主な原因は、第一には、(C)幕府が武家諸法度の励行をはかり、これに違反した場合には、きびしい処置をとったからであり、また第二には、(D)あとつぎの子がなくて死んだ大名には、死の直前または死後に相続人を立てることが許されていなかったためであった。この結果として、多くの牢人(浪人)が発生し社会問題ともなったので、幕府は4代将軍家綱の時から末期養子(死の直前に定めた養子)を容認することとし、第二の原因によるとりつぶしの減少をはかった。

〔設問〕
(C) どのような内容の条項に関する違反、とくにきびしく取り締られたであろうか。主要な条項のうち二つの要旨と、そのそれぞれの取り締りが励行されなくてはならなかった理由とを、合せて80字以内で記述せよ。

(D) 許されていなかった理由は、どの点にあったと考えられるか。これを封建社会における主従関係のあり方という観点から、60字以内で説明せよ。