年度 1977年

設問番号 第3問


次の二つの文章を読み、設問(A)〜(E)に答えよ。

 

江戸時代の大坂は「天下の台所」ともよばれ、諸国の物産は多く大坂に送られ、ここを集散地として全国に販売された。大消費地であった江戸が必要とした物資も、大坂市場に依存することが大きかった。ところが、1842(天保13)年当時、大坂町奉行を勤めた阿部正蔵は、そのころの大坂商業の状態について記した文章の中で、「近年、諸国の百姓町人から大坂の問屋にあてて送ってくる商品荷物が著しく滅少してきており、それが物価騰貴の一因ともなっている」と指摘している。

〔設問〕

(A) 江戸時代の後期に、産業が発達し商品流通が活発になったにもかかわらず、「天下の台所」である大坂の商業機能が衰えた事情を、下記の三つの語句をすべて用いて、160字以内で説明せよ。

   藩専売 株仲間 在郷商人

 

(ア)幕末から明治初年にかけて、洋学者たちによって日本に紹介された欧米諸国の立憲政治に関する知識は、明治政府の関係者たちにも影響を与え、廃藩置県後まもなく、左院において、法制定と議会設立の具体的構想が生まれた。また、そのころ(イ)欧米諸国を視察した岩倉使節団一行は、議会をはじめ近代的諸施設を実地に見学し、国内改革の必要性を痛感したが、彼等の中には帰国後立憲政治の導入について意見書を提出するものもあらわれた。いっぽう、これにやや遅れて、征韓派の前参議板垣退助らが連名で民撰議院設立を左院に建白し世の知識人たちに大きな反響をよびおこした。西南戦争ののちには、自由民権派による国会開設運動が全国的な高まりをみせたが、政府はこれと対抗してみずからの主導権で憲法制定と議会開設の準備に着手した。そして、おおむねプロシアをはじめドイツ諸邦の政治制度を範として、憲法制定の作業を進め、1889(明治22)年、大日本帝国憲法を発布し、翌年には帝国議会を開設した。政府は憲法発布当初、(ウ)超然主義にもとづく政治運営を唱えたが、(エ)議会開設後は、そうした政治運営は次第に困難となった

〔設問〕

(B) 下線部(ア)に関して、幕臣出身でのちに明治政府に出仕し、日本に立憲政治を紹介した著名な洋学者のうち一人の氏名を記せ。

(C) 下線部(イ)に関する次の文章のうち、誤っているものがあれば、その数字を記し、かつ誤りの理由を30字以内で述べよ。

 1.岩倉使節団には、女子をふくめて多くの留学生が随行した。

 2.岩倉使節団の重要な使命の一つは条約改正の交渉であったが、これは成功しなかった。

 3.廃藩置県後、必ずしも政情が安定しているとはいえない中で、多くの政府首脳が岩倉使節団に加わって日本をあとにしたことは、欧米諸国から多くのものを学ばうとした政府の熱意のあらわれであった。

 4.岩倉使節団はとくに君主の権力の強大なドイツに強い関心を抱き、他の諸国、なかでも共和国にはほとんど関心を示さなかった。

(D) 下線部(ウ)はどのような主張であったか。40字以内で説明せよ。

(E) 下線部(エ)はどのような事情によるものであったか。100字以内で説明せよ。