年度 1978年

設問番号 第1問


下記のA・B二つの部分について,(a)〜(d)の設問に答えよ。

 

A.次の(ア)〜(カ)の一連の文章を読んで,下記の設問に答えよ。

(ア)紀元前後,九州北部を中心に西日本に生まれた多くの小国は,その後抗争をくり返しながら地域的に統合されていった。3世紀に現われた邪馬台国は,そのようにして成立した国々の盟主であったと考えられる。

(イ)4世紀には,畿内に成立した大和政権が次第に勢いを強め,各地の豪族を服属させていった。このころ各地に築造された古墳は,当時の豪族の政治的権威を示すもので,その分布は,有力な豪族の存在を反映している。

(ウ)5世紀後半から6世紀にかけて,大和政権による地方支配は一層進行した。中央からは国造が各地に赴任し,大伴氏や蘇我氏などの中央諸豪族の私有民である品部も,各地に設定された。

(エ)7世紀には,東アジア情勢の変化にともない,日本でも中国にならって律令制度にもとづく中央集権的な政治体制が形成された。しかし地方豪族は,依然民衆に対して強い支配力を保っていた。

(オ)8世紀には,平城京を中心に国府を結ぶ駅制が整い,中央・地方の関係が緊密になった。国分寺・国分尼寺の建立は,仏教によって国家の平安を願ったものである,同時にその国の仏教の中心としての役割もになった。

(カ)9世紀以降,地方政治は著しく混乱した。国司は役得の多い職と考えられ,受領として任地で私腹を肥やす者が多くなった。また遙任でその収入だけを得る者もあり,院や上級貴族も知行国の制によって収益の増大をはかった。

〔設問〕

(a)上記の(ア)〜(カ)の文章には,誤った文章が一つ含まれている。誤った文章の記号を記せ。

(b)(a)で誤りとした文章について,それにかわる正しい文章を,下線の部分をそのまま用いて,下記の語群のなかの三つの語を使用し,総計150字以内で記せ。その文章は,上記の一連の文章の流れにふさわしいものでなければならない。(同一の語を2度以上用いてはいけない。また文章中,利用した語には下線を付すること。)

 県主   蝦夷  大王   金印   遣唐使
 庚午年籍 国学  国衙領  防人   大化の改新
 太政官  追捕使 銅鐸   伴造   武士団
 屯倉   倭人伝 倭の五王

 

B.次の(ア)〜(ウ)の文章は,10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる逸話を集めたものである。これらの文章を読み,下記(エ)の略系図をもとにして,(c)・(d)の設問に答えよ。

(ア)967年,冷泉天皇が即位すると,藤原実頼が関白となった。しかし実頼は,故藤原師輔の子の中納言伊尹ら一部の人々が昇進をねらって画策し,誰も自分には昇進人事について相談に来ないといって,自分が名前だけの関白にすぎないことを,その日記のなかで軟いている。

(イ)984年,花山天皇が即位し,懐仁親王(のちの一条天皇)が東宮となったとき,関白は藤原頼忠であったが,まもなく故伊尹の子の中納言義懐が国政の実権を握るようになった。かねがね摂関の地位をねらっていた藤原兼家は,自分が将来置かれるであろう立場を考えたすえ,しばらくのあいだ,その野望を抑えることにしたという。

(ウ)1107年,堀河天皇の没後,鳥羽天皇が即位したが,藤原公実は,自分の家柄や,自分が大臣一歩手前の大納言であること,それに摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行があることなどを理由に,鳥羽天皇の摂政には自分をするよう,天皇の祖父の白河上皇に迫ったが,上皇はこれを聞きいれなかった。

(エ)略系図

系図

(注)1,2,3…13は,本系図における皇位継承順,(1)(2)(3)…(13)は,同じく摂関就任順を示す。

〔設問〕

(c) 上記の文章を読むと,文中の下線部の人物のおかれた立場には,ある共通した特徴が考えられる。それを具体的なことばで説明すると,どうなるか。25字以内で述べよ。

(d) 藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情と,藤原公実の要求が白河上皇に聞きいれられなかった事情とを手がかりにしながら,(ア),(イ)のころの政治と(ウ)のころの政治とでは,権力者はそれぞれ,どのような関係に頼って権力を維持していたかを考え,その相違を150字以内で述べよ。