年度 1984年

設問番号 第3問


以下の2つの設問A、Bに答えよ。

A.下記の文は、近世の絹織物業の代表的な生産地である、西陣と桐生の歴史を記したものである。この文の下線部(1)、(2)の史実は何故おこったのか、その原因について、それぞれ2行以内で記せ。

 京都には、古くから伝統的技術にもとづいた絹織物業があったが、16世紀末、中国から導入された織物の技術によって、西陣の地に新たな機業がおこった。これ以後、西陣は17世紀を通じて、絹織物の生産地としての独占的地位を保持しつづけた。幕府が糸割符制度を定めたのも、西陣の存在と無関係ではなかったようである。
 18世紀を迎えると、国内各地に諸産業がおこり、三都をはじめとする都市も発達した。(1)この時期に、西陣の生産額は飛躍的に高まり、また、西陣からの技術を受け入れて台頭した桐生も、西陣と対抗するまでに急速な発展をとげた。19世紀前半には、桐生には、問屋制家内工業やマニュファクチュアが生まれた。
 しかし、(2)1860年頃から、西陣も桐生も生産額が急激に減少し、一時は存立の危機にさらされたが、1870年代に再興した。


B.長野県諏訪地方では製糸業の発達が日覚ましく、明治後期になると、県外からも多数の工女が集められるようになった。これら工女たちによってうたわれた「工女節」に、「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」という一節がある。どうして「糸をひく」ことが「国のため」と考えられたのであろうか。明治後期における日本の諸産業のあり方を念頭において、5行以内で説明せよ。