年度 1997年

設問番号 第2問


次の(1)から(5)の文を読み、下記の設問に答えよ。

(1) 1203年、北条時政は、孫にあたる将軍源実朝の後見役として政所の長官に就任し、幕府の実権をにぎった。この地位を執権といい、以後北条氏一族に世襲された。

(2) 1219年に実朝が暗殺された後、北条義時は、幼少の藤原頼経を摂関家から将軍に迎えた。

(3) 1246年、北条時頼が前将軍藤原頼経を京都へ追放したとき、有力御家人の三浦光村は、頼経の輿にすがって、「かならずもう一度鎌倉の中にお入れしたく思う」と涙ながらに言い放った。翌年、時頼は三浦泰村・同光村ら三浦一族をほぼ全滅させた(宝治合戦)。

(4) 1266年、北条時宗は、15年間将軍の地位にあった皇族の宗尊親王を京都へ追放した。この事件について、史書『増鏡』は、「世を乱そうなどと思いをめぐらしている武士が、この宮に昼夜むつまじく仕えている間に、いつしか同じ心の者が多くなって、宮自身に謀反の意向があったかのように言いふらされたものだろう」と説明している。

(5) 1333年、後醍醐天皇の皇子護良親王は、諸国の武士や寺社に送った幕府打倒の呼びかけのなかで、次のように述べた。「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫の東夷どもが、承久以来、わがもの顔で天下にのさばり、朝廷をないがしろにしてきたが、ついに最近、後醍醐天皇を隠岐に流すという暴挙に出た。天皇の心を悩ませ国を乱すその所業は、下剋上の至りで、はなはだ奇怪である。」

設問

A 鎌倉幕府の体制のなかで、摂家将軍(藤原将軍)や皇族将軍はどのような存在であったか。北条氏と将軍との関係、反北条氏勢力と将軍との関係の双方に触れながら、3行以内で述べよ。

B 護良親王は、鎌倉後期に絶大な権力を振るった得宗(北条氏嫡流)を、あえて「伊豆国の在庁官人北条時政の子孫」と呼んだ。ここにあらわれた日本中世の身分意識と関連づけながら、得宗が幕府の制度的な頂点である将軍になれなかった(あるいは、ならなかった)理由を考えて、4行以内で述べよ。