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二・一スト計画

メールでの質問への応答です(2002.02.1)。
> 2・1ゼネストについて教えてください。
> 教科書では説明が詳しくないようなので・・・
> 経過において労働組合がどういう動きをしたのか、
> また、失敗に終わった事でどういう影響が出たのか、
> を教えてください。よろしくお願いします。

『日本史新用語集』(あすとろ出版)では次のような説明があります(私が執筆を担当した部分)。

 1947年2月1日に予定された全国一斉ストライキ計画。全官公庁共同闘争委
 員会(議長伊井弥四郎)を中心に,産別会議・総同盟などが全国労働組合共
 同闘争委員会を組織,吉田内閣打倒を目指す。マッカーサーが1月31日禁止
 を命令。

これでだいたいの内容はわかるでしょうが,
そこに至る経過を少し説明しておきます。

敗戦後,
生産停滞と生活物資の不足により激しいインフレ状態にあったことは知っていると思いますが, そうした経済状態では人びとの生活は極めて厳しいものになります。
そのため,
生活権の確保,賃金引上げを求めて行動をおこす労働者が増えていきます。
それに拍車をかけたのが,
占領軍の民主化への姿勢であり,
そのもとでの日本共産党や日本社会党の結成であり,
1945年12月の労働組合法の制定でした。
そうして各地で労働組合が組織され,
生活権確保・賃上げをめざして組織的な活動が展開し(そのなかの一コマとして一部では生産管理闘争が行われた),
46年8月には産別会議(全日本産業別労働組合会議)と総同盟(日本労働組合総同盟)という全国組織が結成されます。
そして同年10月,
共産党系の産別会議の提起にもとづいて炭鉱・電力・電気機器・新聞などの産業部門でストライキを手段として大規模な労働争議がおこなわれ,
その結果,
そうした民間産業では賃上げ要求を実現させることになります。
ところが,
官公庁の賃金水準は民間の45%にすぎず,
そのため翌11月,官公庁,郵便局,国鉄,教員などの労働組合によって全官公庁共同闘争委員会が結成され,
政府(第1次吉田茂内閣)を相手に賃上げを求める労働争議が展開していきます。
そして,
この官公庁労働者の動きは次第に吉田内閣打倒という政治的要求を掲げるものへと発展し,
さらに産別会議や総同盟,そこに加盟するさまざまな民間の労働組合も協力態勢をくみ,
12月には全国労働組合共同闘争委員会が組織されるに至りますが,
こうした一連の動きには共産党の指導が大きく働いていました(社会党左派も協力)。
こうした動きに対し,
47年1月1日,吉田首相がラジオ放送で発表した年頭の辞のなかで「かかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じませぬ」との発言を行ったものですから,
労働組合側の態度も強硬なものとなり,
全官公庁共同闘争委員会は1月18日,“2月1日のゼネスト決行”を決定,
全国労働組合共同闘争委員会もゼネスト参加を決定します。
それに対してGHQがストライキ中止を警告し,
さらに社会党が右派主導のもとでゼネスト回避を決定したものの,
ゼネスト決行への動きはとまらず,
さらには吉田内閣に代わる民主人民政府の閣僚名簿が作成されたというウワサも流れるような状況でした。
そうして結局,
1月31日,マッカーサーがゼネスト禁止命令を発令。
これに対して共産党もスト中止を受け入れ,
その指示のもと,
全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜,ゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発します。
さらに,
全官公庁共同闘争委員会,全国労働組合共同闘争委員会ともにただちに解散,
こうして二・一ゼネスト計画は失敗に終わるわけです。

では,
この中止・失敗がどのような影響を残したかです。
直接的には,
労働組合のなかに共産党の指導に対する反発を引き起こし,
共産党の指導力を排除しようする民主化同盟(民同)という分派活動が始まるきっかけとなりました。
そして,
炭鉱・教員・国鉄・郵便局などの労働組合では最終的に民主化同盟(民同)派が主導権を掌握するに至り,
GHQの支援のもとで1950年7月,
そうした民同派労働組合の全国組織として日本労働組合総評議会(総評)が結成されます。
そして,
それに反比例する形で産別会議は組織力を大きく低下させてしまいます。
[2002.02.11]