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五五年体制について

メールでの質問への応答です(2000.11.11)。
> 55年体制について、教科書では社会党の分裂・保守,革新の対立・両派の統
> 一・保守合同・保守一党優位の順で説明されていますが,具体的な説明が分か
> らずなぜ55年体制が40年間続いたのかが理解できませんでした。

自民党が安定多数を維持し,
社会党など野党が3分の1以上の議席を確保するという五五年体制−結局のところ自民党の長期政権−が長期にわたってなぜ続いたかといえば,
自民党政権のもとで高度経済成長が実現し,
国民の生活水準が向上したからです。

以下,
少し詳しめに説明しておきます。

まず五五年体制形成の背景についてです。
もともと自民党の成立(保守合同の実現)は社会党の統一に刺激されたものですが,
そもそも左派主導のもとで社会党の統一が実現したのは,
 米軍への基地提供(しだいに基地拡張)や再軍備に対する反対運動のなかで左派
 社会党が総選挙ごとに議席をのばし,保守政党が統一されていない情勢のもと,
 右派と合同すれば社会党が内閣を担当できる可能性が高まってきたため
です。
それに対し,
社会党政権成立への危機意識を高めた財界の強い要請を背景,
吉田茂の政界引退を契機として自由党と日本民主党の合同が実現します。
それが自由民主党の結成です。

こうして自由民主党が安定多数を確保して内閣を維持し,
社会党など野党が3分の1の議席をしめて憲法改正を阻止するという政界の構造が形成されたとはいえ,
1960年までは自民党と社会党のあいだで激しい対立が国会で繰り返され、
自民党政権が安定していたとは必ずしもいえない状態が続きます(議会では強行採決が何度も繰り返されている)。
特に岸信介内閣の末期には,
岸内閣が日米新安保条約の批准を衆議院で強行採決したことに対しては,
自民党内部からも反発がでてきて安保闘争をさらに高揚させています。
必ずしも自民党政権が安定していたとは言い切れない状況がありました。

しかし,
岸内閣が新安保条約の自然成立後に総辞職して池田勇人内閣が成立し,
「寛容と忍耐」「低姿勢」を掲げて社会党など野党との対話姿勢へと転換したことから,
議会における自民・社会両党の激しい対立は影をひそめていきます。
そして争点も政治的課題から,
池田内閣の国民所得倍増計画が想定する(予想)経済成長率をめぐる対立へとズレていきます。
そして岩戸景気のもと,
池田内閣が想定した以上の経済成長を実現し,
さらに佐藤栄作内閣期にいざなぎ景気が長期にわたって訪れるなか,
自民党政権は安定期を迎えることになります。

もっとも,
1960年代末から1970年代にかけて経済成長の弊害(公害・過密などの都市問題)が政治問題化してくると,
都市圏を中心に社会党・共産党系(いわゆる革新系)の地方首長が登場し,
さらに国会でも(多党化をともないながら)保革伯仲の時代が訪れます−ロッキード事件という田中前首相の汚職事件の影響も大きいが−。
とはいえ,
1980年代になり対米輸出の激増などを背景として低成長時代を脱却し,
経済大国への道を歩み始めると,
再び自民党優位の時代が復活します。
こうして五五年体制は多党化現象を伴いながらも1990年代初めまで続くことになります。