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第1次護憲運動・第1次大戦後の普選運動と第2次護憲運動の対比

『(旧版)日本史論述トレーニング』(増進会出版社)の p.183 に次のような問題が取り上げられている。
(※)2005年刊行の改訂版には,この問題は掲載されていない。
第一次護憲運動・第一次大戦後の普選運動と第二次護憲運動との差を,運動の参加者,運動の目的,治安維持法などに注目しながら120字以内で記せ。(1991東京学芸大)
ところが,p.186 に掲載されている解答例は設問の要求にこたえていない。そもそも設問の要求は,第1次護憲運動と第2次護憲運動の対比ではなく,“第1次護憲運動・第1次世界大戦後の普選運動”と“第2次護憲運動”の対比である。にもかかわらず,p.183 の「問題の着眼点」では
「第一次護憲運動(1912年)と第二次護憲運動(1924年)は,いずれも非立憲的内閣の打倒をめざしたが,推進した参加者のねらいは異なっていた.それぞれ,民衆の参加はどうであったか.両運動の間の民衆勢力の伸張,社会主義運動の高まりに注目する.」
とあり,“第一次大戦後の普選運動”を完全に無視してしまっている。設問の要求をしっかりと把握することが論述対策の第1歩であり,最も大切なことがらであることを忘れないで欲しい。

さて,以下に私なりの解説を載せておきます。

問われているのは,“第一次護憲運動・第一次世界大戦後の普選運動”と“第二次護憲運動”の対比。条件として,(1)運動の参加者,(2)運動の目的,(3)治安維持法などに注目することが求められている。
なお,注意しなければならないのは,第一次護憲運動と第二次護憲運動の対比が問われているのではない点である。「第一次護憲運動」と「第一次世界大戦後の普選運動」について共通点を抽出したうえで,「第二次護憲運動」と対比させなければならない。

●第一次護憲運動
(1)運動の参加者…政友会や国民党といった政党も関わったものの,もともと交詢社に集まった政治家・実業家・新聞記者の間から始まった。そして,犬養毅や尾崎行雄らが各地で開いた演説会には多数の都市民衆が集まり,彼らは政府系新聞社や桂系政治家宅を襲うなど,騒擾に走った(都市民衆騒擾)。
(2)運動の目的 …「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに掲げ,第三次桂太郎内閣の打倒を目的とした。
●第一次世界大戦後の普選運動−原敬内閣期に高まった普選運動−
(1)運動の参加者…憲政会や国民党といった政党も関わり,彼らが議会で普通選挙法案を提出したが,吉野作造らによって組織された黎明会,大日本労働総同盟友愛会のような労働団体など,さまざまな社会運動団体が広く参加していた。そして,各地で演説会や集会が開かれて示威行進(デモ行進)が行われ,労働者など多数の都市民衆が参加した。
(2)運動の目的 …普通選挙の実現を目的とした。
なお,原内閣が納税資格を3円以上に引き下げた衆議院議員選挙法改正を行い,さらに1920年総選挙で圧勝すると,普選運動は下火になっていく。

さて,両者に共通点はあるか。
(1)運動の参加者という点からは,議会政党ではなく議会外の運動,なかでも不特定多数の民衆が主体であったことが導き出せる。
(2)運動の目的はどうか。
そこで思い起こしたいことは,第一次護憲運動が大正デモクラシーの本格的な出発点となったことである。
大正デモクラシーとは明治憲法体制の民主主義的改革を要求する運動や思潮をさす用語だが,その代表的な思想家吉野作造は,デモクラシーを“主権在民”と“民意の尊重”とに分け,“民意の尊重”として民本主義を提唱した。そして具体的な政治目標として政党内閣と普通選挙の実現を掲げ,1918年には福田徳三らと黎明会を組織して啓蒙活動を展開し,普選運動の一翼をになっていた。
このことを念頭におくならば,第一次護憲運動は“閥族打破・憲政擁護”という非常におおざっぱな主張しか掲げられなかったにせよ,第一次世界大戦後の普選運動との間には,藩閥官僚勢力や政友会といった一握りの人びとによって政治が牛耳られる状態を打破し,民意の尊重・民衆の政治参加を求める運動という点で共通性を見出すことができる。

●第二次護憲運動
(1)運動の参加者…憲政会・政友会・革新倶楽部といった議会政党が主体であった。
(2)運動の目的 …清浦奎吾内閣を打倒して政党内閣を実現させることを目的とし,普通選挙の断行,貴族院の改革,行財政整理の実施などを主張した。
(3)治安維持法 …第二次護憲運動の結果,憲政会総裁加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立し,1925年普通選挙法が制定されたが,同時に,国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする運動・団体を取締ることを目的とした治安維持法も制定された。
こうしたデータはすぐに思い浮かぶだろうが,第二次護憲運動のなかで治安維持法の制定が主張として掲げられたわけではないのだから,扱いには注意が必要。清浦内閣打倒や普選断行など,第二次護憲運動のなかで掲げられた主張がもつ意味,そのねらいを,治安維持法制定との関連のなかで考えていかなければならない。
いくつか史料を紹介しておく。

当時の憲政会総裁加藤高明はすでに1918年,(第一次世界大戦後に起こると予想される)「思想上の波動についてこそ,今日から大に注意し多数国民の欲望に応ずるため,これを善導することに努めねばならぬ」(伊藤正徳『加藤高明』)と述べており,護憲三派内閣の内相若槻礼次郎は議会答弁のなかで普通選挙法を「革命の安全弁」と表現した。
また,当時の政友会総裁高橋是清は,のちに次のように語っている。「普選法を出した時は,三派内閣の時で,加藤高明君と話し合ったんだが,今ま之を政治的に解決してしまはぬと社会問題に為る。さうしたら容易ならざることに為るから,民度から云へば,尚ほ早いけれども,今どうしても政治的に解決して,社会問題が起らぬやうにしなければならぬ。之を残して置いたならば,過激思想が入って来て,是れが彼等の材料に為る,だから何としても通さなければならぬ」(『大日本憲政史』第九巻)。
これらから,第二次護憲運動を主導した政党勢力は,労働運動など階級闘争の激化,社会主義・共産主義の浸透に危機感をいだき,政治的権利を拡大させて民衆の政治参加を実現させることでその不満を解消するとともに,彼らを既成政党のもとへ統合し(民意の善導),政治・社会秩序を安定させることをねらっていたことがわかる。つまり,普通選挙法も治安維持法もねらいとするところは同じだったのである。

【解答例】
第一次護憲運動と第一次大戦後の普選運動は,議会外の民衆を主体として政治への民意の反映を目的としたが,第二次護憲運動は,ロシア革命の影響で社会主義が浸透し社会運動が急進化するなか,議会政党を主体として民意を善導し,体制内化することをめざした。