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井上財政と高橋財政について

メールでの質問への応答です(2005.1.27)。

> 高橋・井上財政についての質問なのですが・・・はっきり申し上げますと、こ
> この政策の内容は理解できるのですが、その政策を行った背景と、なぜそれら
> の政策を行ったか、またその政策によってなぜ、どのような影響が起きたのか
> がわかりません。全体的にぼや〜っとしている感じです。申し訳有りませんが
> 、この二人の財政を受験の枠内で時間に沿って説明していただけませんでしょ
> うか。

「日本史のお話」を読んでいるとの話なので、「金輸出を解禁する」とはどういうことかは分っていると判断し、その説明は割愛して話を進めます。

まず井上財政から。
浜口雄幸内閣(井上準之助蔵相)の財政・経済政策の中心は金輸出解禁策ですが、金輸出を解禁すれば円為替相場は安定し、自由貿易体制の基礎が確保されます。浜口内閣が金輸出解禁によってやろうとした目的の一つがこれ、つまり、円為替相場を安定させることです。日本が金輸出を解禁した1930年段階ではすでに、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアという主要国が金輸出解禁を実施し、国際金本位制が再建され、自由貿易体制が確保されつつありました。ですから、主要国にあって唯一、日本だけが国際金本位制に復帰できておらず、世界のナンバー3の大国が参加していない自由貿易体制など、不完全なものでしかありません。国際政治における国際協調体制を維持・展開させていくためにも自由貿易体 制の再建は不可欠だと考えられていましたから、日本が金輸出を解禁し、円為替相場を安定させることは、国際的に待ち望まれたものだったのです。もちろん、そればかりではありません。貿易に関わる日本企業にしてみれば、円為替相場が安定していれば貿易取引きの長期的な見通しが立てやすいですし、もともと金輸出禁止は戦争勃発など非常時に際して取られた緊急避難的な政策でしたから、日本も金輸出を解禁しようという話になっていたわけです。

ただし、金輸出を解禁して円為替相場を安定させるといっても、どの水準で安定させるのかが問題です。いくつかの選択肢がありましたが、その代表的なものが次の2つです。
(1)浜口内閣成立当時の水準(100円=40ドル前後)を採用するという選択肢=新平価での解禁
(2)貨幣法(1897年制定)に基づく水準(1円=金0.75グラム→100円=49.845ドル)を採用するという選択肢=旧平価での解禁
この2つの選択肢のうち、浜口内閣が採ったのは(2)の旧平価での解禁でした。
これは浜口内閣成立当時の水準に比べて円高ですから、事実上の円切上げを伴います。ところが、円切上げは輸出に不利・輸入に有利ですから、輸出減退・輸入増進、つまり貿易収支の悪化を招き、言ってみれば国内企業にとってみればマイナスの影響をもたらします。不況を招いてしまうわけです。
浜口内閣は、このように国内企業にとってマイナスの、確実に不況を招く旧平価での金解禁策をとったのですが、それには3つほどの理由がありました。
(1)日本経済の国際信用の低下をきらった。
(2)新平価での解禁には円と金との兌換レートを変更すること,つまり貨幣法の改正が不可欠ですが,それを避けたかった(なにしろ法改正には議会での審議が必要となってきますが、審議が紛糾する可能性も高かった)。
(3)事実上の円切上げにともなう貿易収支の悪化という効果(→金流出の拡大=金保有高の減少→紙幣流通高の抑制→デフレとつながる)を活用して、産業合理化,経済界の整理を促進したかった。
なかでも(3)が中心的なねらいと言えます。
なにしろ、第一次世界大戦中にさまざまな企業が経営規模を過度に膨張させていったわけですが、1920年代の相次ぐ恐慌に際しての日本銀行の特別融資(非常貸出)により、そうした企業の経営改善がなかなか進んでおらず、そのことが国際競争力の不足、インフレ下の慢性的な不況状態、輸入超過の慢性化の原因となっていましたから、浜口内閣は円切上げを伴う金解禁を実施することで、こうした日本経済のマイナス点を改善し、国際競争力の育成を図りたかったわけです。
とはいえ、円切上げを突然断行すれば、日本経済には大きなショックとなります。そこで、ショックを和らげるため、財政緊縮をおこなって物価の引下げをはかり(デフレ政策)、企業に産業合理化を奨励していたのです。

さて、1930年1月に旧平価で金輸出解禁が実施されると、日本経済は強度の不況に見舞われます。しかもその頃、世界経済はかつてない大恐慌にさらされつつありました。1929年10月、アメリカ・ニューヨークのウォール街での株価大暴落が世界恐慌に発展しつつあったのです。そのため、日本経済は金解禁による不況と世界恐慌の波及という二重の打撃をうけ、生糸の対米輸出など輸出が激減し、大量の金が流出、物価は暴落し、企業の事業縮小や倒産が相次ぎ、失業者が増大します。これが昭和恐慌ですね。

次に高橋財政です。
犬養毅内閣(高橋是清蔵相)の財政・経済政策としては、金輸出再禁止(および金兌換停止)策が有名ですが、それを考えるうえでおさえて起きたいのは次の点です。
金本位制のもとでは外国為替相場が安定すると言いますが、そのもとで金は国際収支の変動にともなって国内外を移動し、そのことが紙幣流通高に影響し、国内経済を制約してしまいます。言ってみれば、国内経済の安定よりも外国為替相場の安定を優先させるのが、金本位制なわけです。
他方、金輸出禁止のもとでは事実上、金本位制は機能せず、外国為替相場は変動します。そして、政府による為替相場への介入により政策的な為替相場の管理が可能です(ある程度ですが)。つまり、国内経済の安定を優先させ、外国為替相場のありようをそのための手段として活用することが可能となります。
この点を念頭においてくれれば、犬養毅内閣が金輸出を再禁止したのは、外国為替相場を変動させ、それを昭和恐慌からの脱出策に活用しようとしたのだろう、と想像がつくでしょう。

とはいえ、結論に急がず、犬養内閣が金輸出再禁止策を採った当時の経済・財政状況を確認しておきます。確認しておくべきは、3点です。
(1)昭和恐慌です。金が流出し、都市では企業の倒産、失業者が増大、農村でも繭価の暴落や飢饉などにより悲惨な状況を呈していました。
(2)1931年9月にイギリスが金本位制から離脱します。世界恐慌の影響です。
 イギリスは、日本と同じように事実上のポンド切上げにより金輸出解禁をおこなっていたのですが、結局、持ちこたえることができず、ついに金本位制から離脱します。となると、経済的な苦境から金本位制を離脱したのですから、イギリスの通貨ポンドは大幅に下落していきますよね。そしてポンドの下落は、ポンド建ての資産価値の下落を意味します。三井などの財閥は、ポンド建ての在外資産を持っていましたから、これは大損です。一方、イギリスの金本位制離脱は、遅かれ早かれ日本も金本位制離脱に追い込まれることを予想させます。もし日本が金本位制から離脱すれば、円相場は大幅に下落し、円建ての資産は価値が下落します。こうした状況のもと、三井などの財閥系銀行がドル買いに走ったのです。
いわゆる資本の逃避ですが、円高・ドル安の当時の相場でドルという相対的に安定した通貨を購入しておき、資産の確保を図ったわけです。そのうえで、のち日本が金輸出を再禁止して金本位制から離脱し、それにともなって円為替相場が下落すれば、その段階でドル売り・円買いを行えば、資産は増えます。
 こうしたドル買いが金流出に拍車をかけていました。
(3)1931年9月、関東軍の謀略により満州事変が始まっていました。
 満州事変の勃発に際し、当時の第2次若槻礼次郎内閣は不拡大方針を掲げましたが効果はなく、結局、軍事行動を追認せざるを得ず、そのため軍事費の増額が避けられず、緊縮財政の維持は困難となっていました。言ってみれば、大量の金流出により金保有高が激減していた(→紙幣流通高が抑制される)にもかかわらず、財政規模の拡大が不可避な状況となっていたのです。

こうしたことがらが犬養内閣が金輸出再禁止を行う際の背景となった事態なのですが、金輸出を禁止すれば金流出が止まり、さらに円為替相場は変動制へと移行します。ですから、金輸出再禁止により、金流出をストップさせ(←(2))、それによって金保有高を確保する(←(3))と共に、円為替相場を変動制へと移行させ、そのもとで進行する円安により輸出増進を図ること(←(1))が可能となります。
さらに、犬養内閣は紙幣の金兌換を停止したうえで(これで事実上、日本は管理通貨制度へ移行しました)、赤字国債を発行して日本銀行に引き受けさせます。
これで紙幣流通高がいっきに増大するわけですが、金保有高が減少しているにもかかわらず紙幣流通高を増大させれば、紙幣の金兌換が維持できるかどうか不確実となり、国内でも金兌換の請求が増える可能性がありますから、それに対する予防措置としてあらかじめ金兌換を停止したのです。こうした措置をとったうえで、犬養内閣は財政規模を拡大させ(積極財政)、軍事費の増額を図ります。軍事費の増額は、当然、満州事変への対応ですが、他方で、政府が軍需品を大量に購入するというわけですから、軍需に関わる民間産業を潤す ことになります。その意味で、軍事費を中心とした積極財政も恐慌対策と言えるわけです。
なお、こうした犬養内閣の積極財政策は、次の斎藤実内閣(高橋是清蔵相)にも受け継がれ、新たに時局匡救費が設けられ、農村での土木事業に政府が資金を投入するようになります。つまり、農村での恐慌対策です。

さて、こうした高橋財政の結果、日本経済は活況を呈し、昭和恐慌から脱出します。円相場の下落が容認されたこと(いわゆる低為替政策)により綿製品を中心として輸出が拡大し、さらに軍需関連の重化学工業の生産が拡大したため、1933年には工業生産が恐慌以前のレベルを回復するにいたるのです。
ただし、外国為替相場の下落を利用した輸出拡大には限度があります。当時、イギリスも日本と同じように低為替政策をとっていましたし、結局、アメリカも金輸出を禁止して低為替政策をとりました。となると、効果も半減ですし、お互いに摩擦も生じてきます。とりわけ、綿製品が東南アジアなどイギリス経済圏へと輸出されていったため、イギリスとの貿易摩擦が激しくなります。
[2005.1.27]