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院政開始の背景

メールでの質問への応答です(2000.7.5 & 2001.03.11)。

> 院政について。  どうして院政が始まったのかがどうもよくわかりません。なぜ
> 白河は上皇となって政務をとったのでしょうか?平安時代の母系制社会から父系制社
> 会への移行といった社会的背景はわかるのですが、それでもなぜ上皇となって政務を
> 執る必要があったのでしょうか?

白河が自分の子・孫へと皇位を確実に継承させたかったためです。
白河は,1072年後三条天皇の譲位によって即位していますが,後三条の意向により皇太子には異母弟の実仁親王が立っています。白河の母は,後三条の皇太子時代からの後見者である藤原能信(頼通の異母弟)の養女です。いわば亡き藤原能信への配慮から後三条は白河に譲位していますが,本音では実仁に皇位を継承させていきたいと考えていたわけです(実仁の母は三条の子・小一条院の孫)。ところが,後三条は譲位の直後に死去し,さらに1085年には皇太子実仁が病没してしまいます。そこで白河は,1086年子・善仁親王(8歳)を皇太子にたてて即日譲位し(堀河天皇),上皇となって政務をとります。実仁没後の有力な皇位継承者である輔仁親王(実仁の弟)に対抗し,自分の子孫に皇位を継承させようとしたことが院政開始の直接のきっかけだったのです。
[2000.07.05]


> ・院政の開始
> 上皇が院政という形態をとった理由は、上皇が自分の子に皇位を継承させたかっ
> たからですか? あと、院政という実態はどのようなものですか?

院政が始まるようになった直接的なきっかけは,上皇が自分の子・孫へと皇位を確実に継承させたかったことにあります。

とはいえ歴史的背景としては,寺社勢力などの荘園集積,公領侵食が進み,(寺社を含めた)権力者が私的勢力に分裂し,しだいに法によらずに実力で争うという状況が広がっていたことが指摘できます。
10世紀以降,政治の儀礼化が進んでいましたが,法や慣例に拘束された天皇や摂政・関白ではそういう状況に対してうまく対応することができず,政治的制約が少なく,しかも天皇家の家長という立場ゆえに政治的発言力の大きな上皇による専制的な政治運営のもとで,社会全体の統合を図ることが要請されるようになっていたわけです。

なお,院政は下記の図のような形で行なわれていました。
国政レベルの最終的な裁断・指示は院(上皇)が行いますが,その内容を伝える院宣に従いながら天皇や摂関,上級貴族たちの合議で国政は運営されていきます。
一方,院そのものが荘園・知行国を集積した私的勢力でもありますから,その経営は院の家政機関である院庁のもとで行われます。

  院(上皇)−院庁[受領層を職員(院司)に組織]
   ↓院宣で指示   →院庁下文で院の荘園・知行国を経営
+---朝 廷---+ →院司の中には朝廷で高い官職をえるものも登場(そうなれば院は朝廷に対する直接的な影響力も持てるようになる)
|  天 皇 |     
| 摂政・関白 |      
| 上級貴族 |
+------------+
   ↓宣旨・太政官符
  諸 国
[2001.03.11]