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治承・寿永の乱が長期化した事情

メールでの質問への応答です(2004.02.07)。

> 源平の争乱は6年間も戦ってますが、源氏・平氏ともに、それなりの軍事力を保持していて、その両者が
> 激突したら6年間もの時間を費やすことはないと思うのです。教科書に「養和の大飢饉」という語句が
> 登場しますが、この飢饉のために源氏・平氏共に食糧の確保が難しく、戦乱に集中できなかったという
> ことでしょうか?

「それなりの軍事力を保持していて,その両者が激突したら6年間もの時間を費やすことはない」との部分については,何が言いたいのか,私には分かりません。二つの武家がいずれもそれ相当の軍事力をもっていれば,逆に短期で決着する可能性は少ないとも判断できませんか?それに,<源氏>と表現していますが,別に<武家源氏(軍事貴族としての源氏)>が一つにまとまっていたわけではないですよ。それは,保元の乱での源為義と源義朝,平治の乱での源義朝と源頼政の動きを考えてもらえば分かるはず。
ここで注意しておいてほしいのは,治承・寿永の乱は<源平の争乱ではない>ことです。もちろん,最終的にはそういう形に収斂しましたし,そのように表象されることが多いことも事実です。しかし<源平の争乱>とだけ考えていると,治承・寿永の乱がなぜ全国的な争乱として展開し,そして6年間もの時間を費やしたのかが見えてきません。

では,治承・寿永の乱の社会的な基盤は何であったかというと,それは開発領主層の動向だと言えます。
開発領主層は地方に所領を形成していましたが,所領を確保するには<由緒>=<誰かから権利を保証されること>だけでは不十分で,<実力(自力)>が不可欠です。由緒正しくても,実力で劣れば,ライバルに所領を実力で奪われてしまうケースはいくらでもあります。実際,平氏が朝廷で権勢を振るうようになるなか,地方社会では平氏家人の勢力が大きく伸びてくると,平氏家人ではない開発領主層の所領支配は大きく動揺してしまいます。千葉氏や上総介氏のような有力な在庁官人であっても例外ではありません。いくら<公的な>由緒を持っていたとしても,朝廷で平氏の勢力が伸び,さらに平氏が軍事独裁政権を樹立してしまえば,そんな由緒など効果はありません。実力でもって所領を侵害されてしまえば<公的な>由緒など後から付いてきます。
こうした状況下にあった開発領主層にとって,以仁王の令旨に端を発する争乱は好機とも言えます。もちろん,平氏家人による危機管理・監視体制が強まり,よりいっそう所領支配が不安定になる可能性もあります。しかし,<うまくいけば>自らの所領を確保し,敵方(平氏家人)の所領を併せることが可能です−ここには<命がけの決断>が伴いますが−。だからこそ,各地で反乱が同時に展開したわけです。

もちろん,以仁王が名義上の養子となっていた八条女院(鳥羽法皇から膨大な荘園群=八条女院領を譲られた皇女)のもつ広大なネットワークが,同時多発の争乱発生に大きく関与していると思います。しかし,各地で反乱が起こる素地があったからこそ,そのネットワークが有効に機能しえたわけです。

さて,各地で挙兵した個々の開発領主層にとって,次に問題なのは<どのような勢力と提携・連携するか>です。開発領主個々の実力(武力)で事態を打開できるわけではありませんから,その判断が非常に重要な意味をもちます。ただ,ここで注意してほしいのは,挙兵当初から<源頼朝>のもとに反乱勢力が結集したわけではないということです。<結果として>そうなっただけのことで,治承・寿永の乱のなかで<棟梁>に推戴される可能性のあった人物は,源頼朝以外にも複数存在していました(たとえば,もし以仁王が敗死せずに治承・寿永の乱を生き残ったとすれば,源頼朝が鎌倉幕府を開くに至ることもなかったかもしれません)。このことも,争乱を長引かせた理由の一つと言えるんじゃないでしょうか。

とりあえず私が考えているのは,このようなところですが,なお,君が指摘している養和の飢饉の影響も無視できないと思います。
[2004.02.07]