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中世日本で独自の貨幣が発行されなかった理由

メールでの質問への返答です(2000.8.28)。

>>中世の日本で「貨幣」といったら宋銭や明銭ですよね。
>>どうして日本独自のお金を使わないで輸入したものを使ったんでしょうか?
>>教えてください。

中世の日本には,貨幣を発行できるだけの権力をもった政府が存在しなかったからです。

もちろん,貴金属を素材とする貨幣(硬貨)でなく紙幣を発行してもいいわけですが,それにしても貨幣としての価値を政府が信用づけないといけません。要するに,仮に貨幣を発行できたとしても中世日本の政府(朝廷や幕府)にはその価値を保障できるだけの信用がなかったのです。

もう少し詳しく説明すると...

「貨幣」(購入したい品物の価値を表示する手段→売買の手段)は,物品貨幣,秤量貨幣,計数貨幣の3つのパターンに分類できます。
物品貨幣…米や布,絹などの物品が貨幣(購入したい品物の価値を表示する手段→売買の手段)としての機能を果たす。
秤量貨幣…品位・量目をはかって通用する貨幣のことで,素材そのものの価値にもとづいて通用する。つまり,素材である金や銀などの貴金属そのものが貨幣としての機能を果たす。
計数貨幣…素材価値とは関係なく,額面にもとづいて通用するもの。現在つかわれている紙幣(銀行券)や硬貨を思い浮かべてくれればよい。素材は紙・金属などさまざまだけれども,たとえば,1000円札(紙切れ)1枚と100円硬貨(素材はなんだっけ(^^;*)10枚は,素材が違うものの,同じ値段(価値)で通用する。

このうち,物品貨幣や秤量貨幣の場合,政府による信用づけはありませんが(ですからこれらは「日本独自のお金」とは言えませんね),市場のなかでみんながお互いに信用していれば貨幣として機能してくれます。
ところが,物品貨幣(米や布・絹)はかさばってしまって運ぶのに面倒。だから経済流通が発達して貨幣に対する(潜在的な)需要が高まってくると物品貨幣では不便になってしまいます。また秤量貨幣の場合,金や銀などの貴金属がそれなりに採掘されなければ流通する貨幣量も制限されてしまうわけで,高まる貨幣需要に柔軟に対応することが難しい(金や銀の採掘量が増えてくるのは戦国時代以降のこと)。

だから,計数貨幣というのが一番便利なわけです。なにしろ,素材価値(品質)とは関係なく,額面(1000円札なら表面に記されている「千円」という数字)が貨幣として機能してくれるわけですから。
こういう事情もあって,律令政府のもとで発行された皇朝十二銭は全て計数貨幣として発行されています。表面に数字が刻印されているわけではありませんが(「和同開珎」などの文字が刻印されているだけ),枚数でさまざまな品物の価値(値段)を表示しました。

とはいえ問題なのは,そうした計数貨幣としての銅銭を「購入したい品物の価値を表示する手段」としてみんなが信用してくるかどうかです。計数貨幣にしても,物品貨幣や秤量貨幣と同じように,信用があってはじめて貨幣として通用するのです。
皇朝十二銭は,教科書では「京・畿内だけに限られた」などと書かれていることが多いですが,その発見は北海道から熊本まで,ほぼ全国に及んでいますから,教科書で書かれている以上に貨幣として通用していたようです。
ところが,皇朝十二銭は時代があとになるに従って形は小さく,重さは軽く,そして品質は粗悪なものへと変化していきます。律令制度がうまく機能していた時代でこそ,地方で産出する銅資源も政府の統制下に入っていましたが,律令制度が動揺していくなかでそれも困難になり,地方の銅資源から生産工程までをおさえて貨幣を鋳造する力が政府にはなくなっていったのです。
そのため,民間では政府が発行する銅銭への信用が低下してしまい,銅銭を貨幣として使うことがなくなっていきますし,また政府も乾元大宝以降,銅銭の鋳造をストップさせてしまいます。

こうして貨幣の主流は再び米や絹といった物品貨幣に戻ってしまいますが,やはり社会での経済流通が発達して貨幣への(潜在的な)需要が高まっていけば物品貨幣では不便。
とはいえ,10世紀以降,日本国内では貨幣は鋳造・発行されていません。朝廷(公家政権)は言わずもがな,鎌倉幕府や室町幕府にしても地方で産出する銅資源を統制下に入れておらず,貨幣を鋳造するだけの権力をもっていなかったのです。
ところが,お隣の中国では銅銭が鋳造・発行されているし,日中間の貿易もさかん。
そこで中国から銅銭を輸入してそれを貨幣として日本でも通用するという事態が出現したわけです。
[2000.8.28]

* 100円玉の素材は,銅75%,ニッケル25%を混ぜたもの。
永吉智洋さんからメールでご教示いただきました(2001.3.23)。永吉さん,どうもありがとうございました。