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初期議会から原敬内閣までの政党と藩閥の対抗・提携関係

メールでの質問への応答です(1997.12.17,少しだけ手を加えてあります)。
> 「初期議会から、原敬内閣までの政党と藩閥の対抗提携関係
> を論じなさい。」

この問題を考える際に注目しなければならないことがらをピックアップしてみます。さまざまな質問をならべておきますから、教科書などを参考にしてそれぞれに答えてみて下さい。

まず
議会(あるいは政党)・内閣(あるいは藩閥)が問題とされた場合、≪明治憲法体制のしくみ≫がテーマとなっていることが多い(数学でいえば、これが“公式”にあたる)。その≪しくみ≫において内閣と議会がどのような関係にあったのかをまず整理してみよう。

明治憲法では天皇が統治権をまとめて持っているのだが、

  1. 内閣は天皇とのどのような関係にもとづいて行政を担当しているのか
  2. 内閣は議会に対して責任を負うものと規定されていたか
  3. 内閣が行政をおこなう上で不可欠なのは予算と法律だが、それらはどの機関が審議し決定したのか
  4. 議会はどのような権限をもち、どのような機能を果たしていたのか
これらの点を整理してみよう。

あとは、事実関係です。

◎藩閥といえば、どのような人物がうかぶか。彼らは憲法上の政治運営においてどのような役割を果たしたのか。

  1. 原敬内閣までの首相のうち、藩閥出身者はどのくらいいるのか。
  2. 首相の選出は元老がおこなっていたが、元老とはどのような人物を指すのか。

◎初期議会では藩閥と政党(衆議院の勢力)とはどのような関係にあったか。

  1. 憲法発布に際して当時の首相はある演説をおこなっている。それは何と呼ばれる演説で、その演説のなかでは政党に対してどのような態度をとると表明されているのか。
  2. 初期議会では藩閥と政党(とりわけ民党)はどのような関係にあったのか。対抗か、それとも提携か。もし対抗関係にあったのなら、政党はどのような主張をおこなって藩閥に対抗したのか。政党の活動が藩閥の動向(あるいは政治運営)にどのような影響を与えたか−藩閥は政党の活動に左右されずに政治運営を独占したのか、それとも政党の活動に左右されたのか−。もし藩閥の政治運営が政党の活動に左右されてしまったのなら、それはなぜか(→最初に戻る)。

◎日清戦後・日露戦後(明治期に限定)はどうだったか。

日清戦後には藩閥と政党との提携がみられるようになるが、

  1. 藩閥はなぜ政党と提携する必要があったのか。
  2. 日清戦後には初めて政党内閣が出現するが、その後継内閣である第2次山県内閣がおこなった軍部大臣現役武官制や文官任用令改正は何を目的としていたのか。
  3. 藩閥の実力者伊藤博文は何を目的として立憲政友会を結成したのか。
  4. そして日露戦後には政治運営は比較的に安定したが、その時代に内閣を担当したのはどのような政治勢力だったのか。

◎第一次護憲運動以降はどうか。

  1. まず、第一次護憲運動はなにをきっかけとして起こり、何を主張していたのか。
  2. 第一次護憲運動当時に憲法解釈上の通説となる天皇機関説は、内閣と議会との関係についてどのような議論を展開していたか。
  3. 第一次護憲運動の結果、山本権兵衛内閣のもとでどのようなことが実現したか(そのことは政党にとってどういう意味をもっていたのか)。
  4. シーメンス事件で山本権兵衛内閣が総辞職すると、山県有朋ら元老は大隈重信を後継首相に選んだが、そのことによって山県らはどのような効果を期待したのか。第一次護憲運動以降、廃税・減税運動も含めて政情不安が続いていたことを念頭において考えてみよう。
  5. そして、原敬内閣が成立することになったきっかけは何か。その出来事に直面して、山県ら元老は立憲政友会総裁の原敬に何を期待したのだろうか。