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帝国議会の予算審議権が制限されていたことと官僚閥と政党の協調体制との関連

メールでの質問への返答です(2000年1月19日)。

>「明治憲法の67条と71条について説明し、政治史上
> どのような結果をもたらすに至ったか、明治憲法
> 体制(1900年体制)に論及して論ぜよ」

67条と71条はそれぞれ次のような条文です。

「第六七条 憲法上ノ大権ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属スル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス」
(天皇大権と規定されている事項に関する予算案については,議会は政府の同意なくして削減できない)
「第七一条 帝国議会ニ於テ予算ヲ議定セス又ハ予算成立ニ至ラサルトキハ政府ハ前年度ノ予算ヲ施行スヘシ」
(予算が不成立の場合には政府は前年度の予算をそのまま施行することができる)

もともと帝国議会は立法の協賛機関として予算・法律の審議・起案権を持っていますが(予算と法律は帝国議会の審議・承認がなければ成立しない),その議会の予算審議権に制限がつけられているのです。

次に「1900年体制」ですが,これは官僚閥(藩閥官僚)と立憲政友会(藩閥の実力者が率いる政党で衆議院の多数を占める)が協調しながら交互に政権を担当する体制を,坂野潤治氏がそのように表現したものです(1900年は立憲政友会結成の年)。ただ,この場合,「明治憲法体制(1900年体制)」と表現されていますので,政友会という個別の政党にこだわるのではなく,“官僚閥と政党との協調体制(官民調和体制)”ぐらいの意味で用いられていると考えることもできます。いずれにしても話は同じですから,どちらで考えられても結構です。

さて上のテーマは,“官僚閥と政党との協調体制”が形成される上で明治憲法の67条と71条がどのような役割を果たしたか,というテーマに置き換えて考えると,わかりやすいでしょう。

日清戦争前の初期議会において,民権派の政党は衆議院で多数を占め,政府が提出する予算案に対して“経費節減・民力休養”を掲げて削減をはかります。歳出を削減することで“民力休養”つまり地租の軽減を実現させようとねらったわけです。ところが,67条を考慮に入れれば,衆議院で政党が削減可能な分野というのは極めて限られます。内閣(政府)側はいくら衆議院で政党に攻撃されようとも,とにかく削減に同意しなければなんとかなる部分が憲法でちゃんと確保されているわけです。さらに,71条を考慮に入れれば,衆議院で予算案が承認されなくても(予算が不成立),内閣(政府)は前年度予算をそのまま執行することができるのですから,予算規模の拡大さえ望まなければ内閣にしてみれば痛くもかゆくもありません(軍拡などのために予算規模を拡大しようとすればダメですが)。

ですから,政党にしてみれば,67条と71条がある限り,内閣(政府)を組織している藩閥官僚と妥協しないかぎり,“民力休養”という自分達の要求を実現させることは不可能なわけです。初期議会では藩閥官僚と対決した政党が,やがては藩閥官僚と妥協・協調し始めるのも(「1900年体制」の形成に加担するのも),67条と71条がある限り,当然のことなわけです。

なお,藩閥官僚にしても予算規模を拡大しようとすれば衆議院(の多数政党)との協調は不可欠ですから,藩閥官僚の側から「1900年体制」形成への動きが出てくるのです。
[2000.1.19]