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室町時代の日朝関係 −室町幕府の対朝鮮観について

 山川『新日本史』のなかの室町時代の日朝関係についての記述をめぐって生徒から質問をうけ(2006年秋),そこで室町幕府の朝鮮政府に対する姿勢がどのようなものであったかについて調べてみました(2006.11.19)。1つ目は,その結果を「不定期な日誌」に掲載したものです(こちらに移すにあたって一部文章に修正を加えてありますが,内容には変更はありません)。
 後日,これについて九州国立博物館の橋本雄氏からメールをいただくことがあり,ご教示をいただきました(2007.1.7)。2つ目がその内容について記した「不定期な日誌」の記載です。
2006年11月19日

 山川出版社の『新日本史』に次のような記述があり,それについて生徒から質問を受けました。

(朝鮮は:引用者補)「多様な日本側通交者を認め,日本から朝鮮に対しては,将軍をはじめ,管領や大内・大友・宗氏などの守護,対馬・壱岐・松浦地方の武士たち,商人や僧侶など多様な人びとが朝貢という形で通交した。」(p.140)
 ここでは「将軍をはじめ(中略)多様な人びとが朝貢という形で通交した」と表現されていますから,将軍も朝鮮に朝貢したと説明されているわけですが,これは本当なのか?と生徒から質問を受けたのです。僕には予想もしなかった記述だったので(『新日本史』は一通り読んでいたのですが,飛ばして読んでしまっていたようです(苦笑)),調べてから後で答えますと言って,とりあえず帰ってもらいました。そして,同僚や知人に質問したところ,天理大の藤田明良氏から(以前に関西の駿台で一緒になったことがある),朝鮮の小中華主義的な外交秩序を日本の諸勢力がどの程度受け入れていたか(朝鮮大国観)をめぐって高橋公明氏と村井章介氏との間で論争があったこと,将軍までもが朝貢という形で通交したという説は日本の学界ではごく少数であることなどを教えていただいたので,なんとなくの方向性が見えてきて,そこでさまざまな論文に目を通してみました。
 で,結論はというと,まだよく分からないというのが実情です(苦笑)。

 橋本雄「朝鮮国王使と室町幕府」(日韓歴史共同研究委員会の第2分科報告書(2002-2005)より)によれば,日本の為政者レベルには朝鮮蔑視観があり,そのもとで朝鮮使節の来日を「朝貢」と仮想しようという意識があったという。この判断が妥当だとすれば,室町幕府(将軍)が朝鮮に使節を派遣する際,「朝鮮への朝貢」という意識をもっていたとは思えない。伊藤幸司「日朝関係における偽使の時代」(同前)によれば,幕府が朝鮮国王にあてた国書の年号表記は基本的に干支表記で(ただし義満冊封期は明年号,義持期は日本年号),国書では朝鮮国王のことを「殿下」と他称するのが通常であるとされ,これらを念頭においても,幕府が「朝鮮への朝貢」という意識で通交したとは言えそうにない。
 もちろん,そうした意識のもとで派遣された使節が朝鮮の外交儀礼の場でどのようにふるまったのか,あるいは,華夷意識をもつ朝鮮によってどのように仮想・演出されたのかという問題は別。朝鮮が認めた貿易形態は朝貢貿易と民間貿易だったとされるが,高麗版の大蔵経は朝鮮国王から下賜される回賜品だったという(たとえば桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』講談社,2001)。この点を意識すれば,室町幕府からの正式な使節であったとしても「進上と回賜」という形式をふまないと大蔵経は入手しえないのだから,朝鮮の外交儀礼の場では朝貢形式を受容していたとしてもおかしくはない。実際,桜井英治『日本の歴史12 室町人の精神』では,「朝貢者のめあては朝鮮国王から下賜される回賜品にあったが,なかでも将軍や大名にとって垂涎の的だったのが高麗版大蔵経であり」(p.106)と書かれていて,将軍も朝鮮への朝貢者の一つとして,いわば違和感なく,さらっと記述されている。
 さらに,足利義政期,ニセの日本国王使(博多商人などによって日本国王使に偽装した使節が派遣されていた)への対策として,牙符制が導入されている。朝鮮側から象牙製の割符が交付され,以降の日本国王使はこの牙符を持参することを義務づけられたもので(関周一「明帝国と日本」榎原雅治編『日本の時代史11 一揆の時代』吉川弘文館,2003),日明間の勘合と似た役割を果たしているわけだから,朝鮮への朝貢という形式をとっていたのだとの解釈が出てくる余地がある,とも言えます。もっとも,幕府がニセの日本国王使を抑止できない以上,日本国王使の真偽の判定は朝鮮側が用意するシステムのもとでしかできませんから,牙符制の導入を幕府が提言・容認したからといって,朝鮮への朝貢という形式を受容したのだとは言い切れませんが。

 というわけで,幕府は朝鮮に対して朝貢という形式・意識では通交していなかったが(幕府以外の諸勢力はともかく),朝鮮では朝貢として扱われていた,というあたりが妥当なところのように思えます。とはいえ,まだまだいろいろな論文に接しないと確定的なことは言えないなぁという状況です。


2007年1月7日

 2006年11月19日付けの日誌に,室町時代の将軍が朝鮮に朝貢していたのかどうかについて書きましたが,先日,その件に関して橋本雄氏(北海道大)からメールをいただきました。日誌のなかでも論文を2つ紹介した研究者の方なのですが,朝鮮からの大蔵経入手に関連して貴重な意見をいただきました。その内容はおおまかには下記のようなものでした(僕がまとめ直したものなので,もしかすると不適切な箇所があるかもしれませんが)。

 室町幕府が朝鮮へ派遣した使節は朝鮮への朝貢使節と位置づけられるものではなく,朝鮮側も大蔵経などを幕府に「回賜」したわけでもない。朝鮮国王から室町殿への返書には「不腆弊産,謹付回价(つまらない土産を帰国する使節に謹んで託します)」などの表現がみえ,「回賜」(あたえてやる)とは異なる語調を読みとるのが妥当であり,大蔵経は朝鮮国王から室町殿(日本国王)への「回礼品」と呼ぶべきものである。
 そして,室町幕府は外交・貿易上,有利なものであれば体裁や体面などにこたわらずに飛びついてしまうという傾向をもっているため,大蔵経欲しさに辞を低くしたとしても,それは「朝貢」とは言い切れないだろう,とのことでした。
 もちろん,こうした橋本氏の意見に対して反対する研究者もいるのかもしれません。しかし,室町幕府が朝鮮に対して「朝貢」していたとするならば,豊臣政権期に至るまでに対朝鮮観に大きな転換があったと考えなければならないわけなんですが,そんな議論はほとんど目にしない。ということは,もしかすると研究対象としてきちんと論じられてきていないのではないかという印象も持ちます。