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明治期における内閣と政党の関係

メールでの質問への応答です(2004.1.14)。

> いつもホームページを拝見させてもらってます。今回初めてメールを送らせて
> もらったのは、明治時代の内閣と政党の結びつきがうまく理解できないからで
> す。立憲政友会がいるころからと第一次護憲運動あたりが恥ずかしながら理解
> にとても苦しんでます。

「内閣と政党の結びつき」と書いているのですが,この表現だけだと何を尋ねたいのかがわかりにくいですね。
とりあえず一般的な説明をしておきますので,わからないところがより明確化されれば,わからないところを具体的に質問し直してください。

「内閣と政党の結びつき」は,以下のようなケースに分類できます。
(1)政党とは無関係に内閣が組織されている
これは,いわゆる超然主義の立場にたった内閣です。

(2)首相は非政党員だが,政党の支持のもとで内閣が組織されている
さらに2つに分類できます。
ア 政党員が入閣していない
 たとえば,日清戦争前の第2次伊藤内閣(自由党が支持),第2次山県内閣(憲政党が支持),第1次・第2次桂内閣(立憲政友会が支持)などです。
イ 政党員が入閣している
 たとえば,日清戦争後の第2次伊藤内閣(自由党から板垣退助が入閣),第2次松方内閣(進歩党から大隈重信が入閣),大正政変後に成立した第1次山本内閣(立憲政友会から原敬など多数の人物が入閣),第2次大隈内閣(立憲同志会から加藤高明らが入閣)などです。

(3)政党員(政党の総裁)を首相とした内閣が組織されている
これが政党内閣で,政党の総裁を首相として組閣した場合,閣僚の多くを政党員で占めることが一般的で,そういう形で政党を基盤にした内閣が成立します。
これが最初に成立したのは第1次大隈内閣。そのあと,第4次伊藤内閣,第1次・第2次西園寺内閣もこのタイプに分類できます。ただし,第4次伊藤,第1次・第2次西園寺内閣は,首相(伊藤や西園寺)が元老に任じられた藩閥政治家ですから,政党内閣と性格づけすることは余りありません(そのように性格づけしても悪くないのですが)。
つまり,この(3)は
ア 政党総裁であった藩閥政治家を首相とし,閣僚の多くを政党員で占める
イ 非藩閥政治家である政党総裁を首相とし,閣僚の多くを政党員で占める
という2つのケースに分けることができます。

さて,君が質問している立憲政友会成立〜第1次護憲運動のころは,すでに(1)の超然内閣は姿を消し,(2)や(3)アといった藩閥政治家と政党とが結びついた形の内閣が組織されていた時期です。
では,なぜ藩閥政治家が政党の支持・協力を得ながら,あるいは政党を基盤としながら内閣を組織するようになったかといえば,それは国政運営のなかで衆議院がしめた地位ゆえのことです。
衆議院は帝国議会の一部を構成していますが,そもそも帝国議会は天皇の立法行為を協賛する機関で予算や法律の審議を担当しており,そして衆議院は貴族院とほぼ対等な権限をもっているのですが,予算だけは先に審議することができます。ですから,衆議院で予算審議が進まなければ国政運営は停滞してしまいます。
ところで衆議院は公選制です。つまり,衆議院議員選挙法で規定された選挙権をもつ人びとによって選挙された議員で構成される議会でして,そうした議員は政治主張を同じくするものどうしで政党を組織しています。
ということは,衆議院で多数を占める(過半数とは限らない)政党の動向が国政運営を大きく左右するということになります。実際,日清戦争前のいわゆる初期議会では,藩閥政治家を中心に組織された内閣(藩閥内閣)が超然主義の態度で議会にのぞみますが,衆議院で多数を占める反政府派の政党(民党)との対立のなかで国政運営が難航しました。

だからこそ,藩閥政治家は政党の支持・協力を得ながら内閣を組織するようになったのですが,そうなると政党の意向に振り回されることにもなってしまいます。そこで伊藤博文は自ら総裁として立憲政友会を組織し,それにより藩閥政治家が政党を統御できる態勢を確保しようとしたのです。
そのため,立憲政友会結成以降は,非政党員の藩閥政治家が政党の支持・協力を得ながら内閣を組織する(2)アのケース=第1次・第2次桂内閣と,政党総裁の藩閥政治家が政党を基盤として内閣を組織する(3)アのケース=第4次伊藤〜西園寺内閣とが,登場するようになったのです。

しかしここで問題なのは,ここに登場する政党とは立憲政友会のみであることです。となれば,立憲政友会が藩閥政治家との密接な関係をテコとして勢力を拡大し,藩閥政治家にしてみれば立憲政友会の党利党略に振り回されることにもなります。
だからこそ,非政党員の藩閥政治家のなかでも新たに,自ら政党を組織して立憲政友会から自立した政治力を確保しようとする動きがでてくることにもなります。それが具体化したのが第3次桂内閣のときです。
陸軍2個師団増設問題で陸軍が立憲政友会の第2次西園寺内閣を倒閣したことをきっかけとして都市民衆を主体として桂内閣打倒をめざす第1次護憲運動が高まり,そのなかで立憲政友会も第3次桂内閣に対抗する姿勢を明確に示すなか,桂首相が立憲同志会結成を宣言しますよね。これです。

もっとも第3次桂内閣はすぐに総辞職に追い込まれますし(大正政変),桂太郎も内閣総辞職の直後に急死してしまいますから,桂太郎という実力ある藩閥政治家を総裁とした政党は成立しませんでした。
しかし,立憲同志会は(藩閥ではないにせよ)官僚政治家である加藤高明を総裁とし,多くの官僚政治家(たとえば若槻礼次郎や浜口雄幸)とともに立憲国民党多数派の参加をえて結成されますし,第2次大隈内閣では与党となり,さらに大隈内閣のもとで実施された1916年衆議院議員選挙では衆議院第1党となっています。こうした形で,立憲政友会に対抗しえる政党を結成しようとする桂の構想は現実化していきます。
ここで注意していいのは,政党結成を計画したのが藩閥政治家であったにせよ,非藩閥政治家が総裁に就任し,そのもとで政党として勢力を拡大していることです。立憲政友会にしても,第1次護憲運動後,藩閥政治家西園寺公望が総裁を退き,衆議院議員原敬が総裁に就任しています。
このような状況を前提として,(3)イのような政党内閣(本格的政党内閣)が登場することとなるのです。