[テーマ/目次] 

日明勘合貿易と倭寇

メールでの質問への応答です(2004.09.27)。

> 日明貿易について、「明は冊封・勘合・海禁の三点セットによって倭寇の封じ
> 込めに成功した」と、説明されることがありますが、どういうことなのですか。
> ぼくの(幼稚な)考えでは、倭寇とは海賊なのだから、勘合なんて許可制にし
> ても怖い海賊は関係なく襲ってくるんじゃないか、と思ってしまうのですが。
> そもそも海禁とは、自国民を海外に赴くことを禁ずる、とありますが、どうし
> て海禁をしなければならなかったのですか。

明は海賊発生の原因を、人の出入りを完全に自由にしていること、に求めたわけです。
現在でも出入国管理法というものがあり、国内の治安確保のために、政府の許可なく出入国することを原則禁止しています。
それと同じように、明は自国民の出国を禁止し、さらに他国民の入国を当該の国王が朝貢のために派遣した使節団に限定することで、海賊の鎮静化を図るための一手段としたのです。
まず自国民の出国を禁止したのは、自国民が海賊活動を展開する可能性をシャットアウトするためであり、海外渡航した自国民が帰国する際に不法入国者が便乗することを防止するためです。
しかし、人びとの出入国を管理するためには、他国からの渡航者に対する管理・統制が不可欠です。そのための手段として、明に渡航してくる人びとに対して明が個別的に入国(渡航)許可証を発給することも、想定としては可能ですが、労力があまりに大きい。そこで、明は渡航者に対する管理統制を周辺諸国の支配者に求めたわけです。つまり、周辺諸国に居住する人びとの行動(この場合、貿易活動)をしっかりと管理統制する能力をもつ支配者との間に国交関係を樹立し(朝貢・冊封関係ですが)、そのうえで、明への渡航船を当該支配者の派遣する遣明船だけに限定させることで、他国から明へ渡航する人びとに対する管理統制を確保しようとしたわけです。

とはいえ、こうした施策がうまく機能するかどうかは、明の自国民に対する統制力、周辺諸国の支配者の自国民に対する統制力にかかっています。それぞれの国家が自国に居住する人びととその活動に対する強制力をもっていれば、海賊活動を抑止することが可能でしょう。しかし、どこか一つの国でもその強制力が欠けていれば、効果は薄くなってしまいます。

で、効果ですが、明や朝鮮は自国の住民とその活動に対する統制力をしっかりと確保することができていたのですが、日本(室町幕府)はしもじもの住民に対する統制力を必ずしも持てていませんでした。となると、効果が薄くなりそうですね。
ただ明に関しては倭寇の禁圧がある程度、実現できていたようです。おそらく倭寇(と称された人びと)が前期倭寇についても、日本人だけで構成されていたのではなく、中国人や朝鮮人も含まれていたからなんでしょう。中国人や朝鮮人の参加がなくなり、日本人だけに活動が限定されれば、おのずと活動範囲も狭まります。だから明に関しては倭寇禁圧にある程度、成功したのだと思います。私の勝手な想像ですが。

ところが、朝鮮をめぐっては、朝鮮政府と日本(室町幕府)の国交樹立によってのみでは倭寇を禁圧することができませんでした。理由は、室町幕府には倭寇鎮圧能力が欠けていたからです。ですから、朝鮮側にとっては、倭寇鎮圧能力をもつあらゆる勢力と通交する必要がありました。たとえば、1429年に来日した通信使朴瑞生は、壱岐・対馬・松浦のいわゆる三島から九州・瀬戸内海に及ぶ海賊分布、及びこれら海賊=倭寇を統御しうる権力者としての大内・宗像・大友・松浦党などの諸領主の存在を確認し、復命しています。朝鮮はこうした情勢分析に基づいて、室町幕府や西国の守護大名から、西国の中小武士や、商人、零細農漁民などで構成される武装商人集団など、さまざまな勢力と通交し、それによって倭寇禁圧をめざしたのです。では、具体的にどのような方法で通交したか、ですが、室町幕府や大内氏などには通信符を交付し、西国の中小武士や商人などには、朝鮮の官職を与えて通交の特権を認めたり(これを受職人という)、勘合貿易の形式をマネして図書という私印を与えて通交を認めたり(これを受図書人という)と、さまざまな方法をとっていましたが、1419年の応永の外寇、さらに宗貞盛による対馬地域に対する領主支配の強化(倭寇禁圧の徹底)を経て、1436年に日朝間の修好が実現して以降は、朝鮮側は対馬の宗氏に文引発給権を認め、朝鮮への渡航者に文引所持を義務づける方法をとるようになります。
[2004.09.27]