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軍部大臣現役武官制と文官任用令改正

メールでの質問への応答です(2001.01.02)。

> 「(1)軍部大臣現役武官制」と文官任用令の違いが分かりません。
> (1)を復活させたり、廃止したり、政治と軍にどのような関わりがあ
> る制度なのですか?

軍部大臣現役武官制は,内閣の一員である陸軍大臣と海軍大臣に任用される人物の資格を定めたもので(陸軍と海軍を総称して軍部と表現している),任用資格を現役の陸海軍軍人(階級から言えば大将・中将のみ)に限定したのです。
1900年に第2次山県有朋内閣がはじめて規定しました。
この結果,内閣は陸海軍の協力・支持がなければ成立もできなければ,存続もできない状態になってしまいます。なにしろ,陸海軍の気に食わない人物が首相に就任して内閣を組織しようとしたとき,陸海軍は現役軍人を陸海軍大臣として出さないという手段で対抗することができますし,内閣の政策に不満な場合,現職の陸海軍大臣を辞職させておいて,後任を出さないという形で内閣を総辞職に追い込むことが可能です。なにしろ,いずれの場合にしても陸海軍大臣は空席になり,陸海軍に関して天皇を補佐する国務大臣がいなくなってしまうわけですから内閣は成立しえません。
具体的にいえば,1912年,2個師団増設問題をめぐって増設要求を内閣で拒否された陸軍が,上原勇作陸軍大臣を単独で辞職させ,後任を出さないという形で第2次西園寺公望内閣を総辞職に追いやっています。ところが,その結果,発生した第1次護憲運動の結果,第1次山本権兵衛内閣のもとで軍部大臣現役武官制は廃止されます(現役を引退した軍人−予備役・後備役−にまで任用資格を拡大)。
しかし,1936年,二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣のもとで復活し,以後の陸海軍(軍部)の内閣に対する発言権を支える制度として機能していきます。
広田内閣総辞職後には,元老西園寺公望の推挙で宇垣一成が内閣を組織しようとしますが,それに不満な陸軍が陸軍大臣を出さなかったために,宇垣は組閣に失敗していますし(宇垣流産内閣),1940年にはドイツとの提携強化に消極的な米内光政内閣を倒し,近衛文麿の首相への就任を期待して,陸軍が畑俊六陸軍大臣を辞職させて後任を出さず,米内内閣を総辞職に追い込んでいます。

次に文官任用令です。
これは,文官(武官−軍人−以外の官吏)の任用資格を定めたものです。
文官のランクには,大きく分けると高等官と判任官の2つがあるのですが,高等官のなかはさらに親任官・勅任官・奏任官の3つのランクに細分化されています。
高等官
 +親任官(首相や各国務大臣など)
 +勅任官(各省の次官や局長,府県知事,帝国大学教授など)
 +奏任官(各省の書記官,帝国大学助教授など)
判任官(警部・警部補など)

1893年に制定された文官任用令では,
 奏任官…文官高等試験合格者
 判任官…文官普通試験合格者
のように任用資格が定められていたのですが,親任官・勅任官には規定がなく,“自由任用”とされていました。ところが,最初の政党内閣である第1次大隈重信内閣で政党員の勅任官への登用が目立ったため,次の第2次山県有朋内閣が文官任用令を改正し(1899年),勅任官の任用資格を“文官高等試験合格者の奏任官”に変更します。政党員の進出を防止し,帝国大学出身者を中心とする官僚勢力が勅任官(大雑把に表現すれば高級官僚)を独占する態勢を整えたわけです。
[2001.01.02]