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財閥解体が不徹底におわった理由

メールでの質問への応答です(2001.08.27)。

> 財閥解体が農地改革に比べて不徹底に終わったのは何故ですか?

もっともな疑問です。

両者とも「軍国主義の基盤」を解体するために遂行された政策だとすれば,農地改革については農地法が制定されて改革の成果がくつがえされることのないように法的措置がとられたのに対して,財閥解体がすでに占領期からなし崩し的的に不徹底なものとなってしまったことは,なんとなく納得のいかない話です。

ただ,よく見ていくと,その2つの政策に違いがあることがわかるはずです。

農地改革は,幣原喜重郎内閣が自主的に農地改革案を決定し,それも農地調整法「改正」という形で実施しようとしました。もちろん,議会の反対にあってなかなか法改正が実現できず,結局,GHQの指令があって初めて法改正を実現させることが可能となりました。しかし,新規に法律を制定するという形をとらずに,戦前からある法律を「改正」するという形で着手されています(もちろん,内容的にはGHQが不満を抱くようなものでしかなかったにせよ)。
この点が財閥解体とは大きく異なる点です。

つまり,農地調整法が制定された時点(1938年)で既に地主制を制限しようとする動きが具体化していて,戦後の農地改革はいわばそれを徹底させる形で実施されたとも評価できる側面があるわけです。

では,なぜ1938年以降,地主制は抑制される方向をたどったのか。それは1938年という年代を考えてもらえば,ある程度は想像つくと思います。日中戦争が長期化するなかで国家総動員法が制定された年であり,それを出発点として経済や国民生活についてさまざまな統制が施されていきますが,そのなかで食糧はどうだったか?

山川の『詳説日本史』では次のように記述されています。

 農村では,1940(昭和15)年から米の供出制が実施された。小作料の制限や生産者米価の優遇などで地主の取り分は縮小していったが,労働力や生産資材の不足のために,食糧生産は1939(昭和14)年をさかいに低下しはじめ,食料難が深刻になっていった。(p.326)
つまり,食糧の安定供給が切実に求められていたのが当時だったのです。そして,食糧の安定供給を実現させるため,耕作者の権利を保障し,地主の権利を抑制する方向で,農業生産力の向上をはかろうとする試みが農地調整法の制定でした。

そして敗戦後の日本といえば,極度の食糧危機にみまわれていました。そのことを考えれば,幣原内閣が農地調整法「改正」して,耕作者の権利を保障し,地主の権利を抑制する方向をさらに徹底させる形で農地改革案を自主的に決定したのも了解できると思います。つまり,“食糧の安定供給→農業生産力の向上”という課題からは地主制は抑制されるべき存在,いわば障害だったわけで,その課題が残る限り,農地改革の成果を維持するという方向性は堅持されていきます。

ところで,財閥解体という政策は,(1)財閥家族(とその関係者)が株式所有を独占し,直接的な企業支配力を有する状態を解体すること,(2)独占的な地位をもつ大企業を解体すること,の2つの側面があります。

そのうち,前者の(1)の側面(いわゆる所有と経営の分離)については,すでに日中戦争期に徐々に進行していましたし,占領政策の転換以降も基本的には復活していません(企業集団という形で近いものが復活しましたが,同族が株式を独占的に所有するのではなく,グループ企業が株式を持ち合うという形です)。ですから農地改革と同様,不徹底には終わっていない,しっかりと遂行されたと判断することが可能です。

ところが,(2)の側面,つまり“独占を抑制して自由競争を保障する”という志向性については,不徹底に終わっています。それは,中国内戦が中国共産党の勝利へと傾いているという1948年段階の国際情勢のもとで,日本を戦略拠点として重視するようになったアメリカが,“日本経済総体の工業生産力を向上させる”という方向性を優先させるようになったからです。

つまり,“農業生産力の向上”という課題からは法外な小作料を収取する地主経営のあり方は排除されなければならず,農地改革は徹底されたが,“工業生産力の向上”という課題からは過度な独占の抑制・企業の競争力の弱体化は好まれず,財閥解体は不徹底に終わったというわけです。
[2001.08.27]