日米和親条約

【史料解説】  アメリカ使節ペリーとの間で,1854年日米和親条約が締結された。通商を回避しようとする幕府の主張はひとまず受け入れられたが,結局,下田・箱館の開港,薪水・食料・石炭などの必需品の供給,漂流民の保護と来日アメリカ人の公正な取り扱いを認めることになった。 さらにペリーは,すでにロシア使節プチャーチンが来日していたこともあり,他国が条約を締結するだろうことを念頭に,第九条で最恵国待遇を明記させた。最恵国待遇とは,一方の締約国が,第三国に対してより有利な待遇を与えた場合,他方の締約国に対しても同様の待遇を与えることを約束することであり,将来第三国よりも不利な地位に陥らないことを目的として規定される。ところが,第九条では,アメリカに対してだけ最恵国待遇が与えられ,日本に対しては認められておらず,片務的であり,不平等な内容だ。


日露和親条約(日露通好条約)

【史料解説】  ロシア使節プチャーチンとの間で,1854年下田で日露和親条約(日露通好条約,太陽暦では1855年)が締結された。第二条で日露間の国境が規定され,千島列島(クリル諸島)については択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)の間に国境を定めたが,樺太(カラフト)については国境を定めず,日露両国民が雑居する地とした。日露間の国境に関する条約としては,この後,樺太・千島交換条約(1875年),ポーツマス条約(1905年),ヤルタ協定(1945年),サンフランシスコ平和条約(1952年),日ソ共同宣言(1956年)がある。日露(日ソ)間の国境の移り変わりは頻出なので,きちんと整理しておきたい。


日米修好通商条約

【史料解説】  アメリカ総領事ハリスとの間に,1858(安政5)年日米修好通商条約が締結された。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港(神奈川の開港後に下田を閉鎖),江戸・大坂の開市,自由貿易,金銀貨幣の同種同量での交換,協定関税制(関税自主権の喪失),領事裁判権などを規定している。さらに,日米和親条約の規定のうち,この修好通商条約の規定にないもの −たとえば片務的な最恵国待遇− はそのまま引き継がれた。これらのうち,関税自主権の喪失・領事裁判権の承認・片務的な最恵国待遇は不平等な内容だ。また,批准書交換はワシントンで行うことが定められたため,1860年1月外国奉行新見正興ら遣米使節がアメリカへ派遣された。第十三条は1872年から条約改正交渉に入ると定めたもので,1年前に通達し,両国政府の協議によって条約改正が可能と規定されていた。そのため,1871年右大臣岩倉具視を団長とする遣外使節団が派遣され,まずアメリカで条約改正予備交渉に着手した。


五品江戸廻送令

【史料解説】  1859年横浜・箱館・長崎が開港されて,自由貿易が開始されると,江戸・大坂の特権的な問屋商人を中心とする全国的な商品の流れが崩れていく。なかでも,生糸生産者から在郷商人をへて横浜の売込商につながる生糸輸出の流通ルートが生まれ,江戸に入ってくる商品は激減し,江戸では物資不足から物価が高騰した。そこで幕府は,1860年五品江戸廻送令を発し,地方から横浜港への商品の直送を禁止し,いったん江戸の問屋に集荷させたうえで横浜に回送することとした。しかし,自由貿易をもとめる欧米商人や在郷商人の反対をうけて,効果はあがらなかった。


大政奉還の上表文

【史料解説】  ええじゃないかの乱舞が京坂一帯に広がり,薩摩・長州藩の武力倒幕をめざす動きが高まるなかで,政局の平和的収拾をのぞむ土佐藩では,藩士坂本龍馬の『船中八策』をもとに,藩士後藤象二郎が前藩主山内豊信を動かして,15代将軍徳川慶喜に政権を朝廷に返すことをすすめる建白書を提出させた。将軍慶喜は,これに応じて,1867(慶応3)年10月14日大政奉還の上表文を朝廷に提出した。天皇のもとで徳川家を中心とする諸藩代表者会議を新たに構成し,徳川家の主導権を確保しようとした。同日,薩摩・長州藩は討幕の密勅を手に入れていたが,翌15日に大政奉還が勅許されたことで,肩透かしをくらったことになる。


王政復古の大号令

【史料解説】  大政奉還後,政局が徳川慶喜のペースで進められることを憂慮した薩摩・長州両藩は,1867(慶応3)年12月9日公家岩倉具視らと図ってクーデターを挙行し,朝廷の主導権を掌握した。その際に朝廷から発せられたのが,王政復古の大号令。全てを「神武創業の始」(神武天皇による建国の始め)に復古することが名分として掲げられ,幕府だけでなく摂政・関白をはじめとする朝廷内の諸制度もすべて廃絶された。そして,総裁・議定・参与という三職から構成される臨時政府に国政がゆだねられることとなった。


五箇条の誓文

【史料解説】  1868年3月14日明治天皇が宮中の紫宸殿において天神地祇を祀り,国是(政治の基本方針)として五箇条を誓った。それが五箇条の誓文。江戸城総攻撃の予定日の前日のことだ。
「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と,公議世論の尊重を掲げた。もともと由利公正や福岡孝弟の草案では,天皇と公家・大名の盟約として制定される構想であったのが,木戸孝允が「広ク会議ヲ興シ」と曖昧な表現に改めたことで,諸藩代表者会議(列侯会議)を否定するとともに,さまざまな人びとを新政府のもとに組織していこうとする姿勢を示した。また,「旧来ノ陋習ヲ破リ」と抽象的な表現ではあるが,攘夷の放棄・開国和親の方針を明らかにした。同年2月に英公使パークスが襲撃されるなど,攘夷の風潮が残っており,それらを抑制して欧米諸国からの支持を確保しようとしたのだ。


五榜の掲示

【史料解説】  五箇条の誓文が発せられた翌日,江戸幕府の高札にかわり,人びとの遵守すべき項目として5枚の高札が掲げられた。それが五榜の掲示。第一〜第三札は恒常的なものとし,儒学で重視される五輪の道徳の奨励,徒党・強訴・逃散の禁止,キリスト教禁止(キリシタン禁制)を示した。それに対し,第四・第五札は一時的な掲示とされ,第四札で外国人殺害の禁止,第五札で本国脱走の禁止を掲げた。このうち,キリシタン禁制の高札は,浦上信徒弾圧事件に対する欧米諸国の抗議により,1873年撤去された。以後,キリスト教の信仰は黙認された。


政体書

【史料解説】  1868年閏4月政体書により新政府の政治組織が定められた。起草は福岡孝弟・副島種臣。中央権力として太政官を置き,天皇親政の名のもとに太政官へ権力を集中したうえで,その中で,アメリカ憲法をモデルとして立法・行政(史料の原文では行法)・司法の三権分立をはかった。また,官吏公選の制度をとることを宣言していたが,1度しか行われず,形式的なものにとどまった。地方制度としては政府直轄の府・県が新たに設置され,従来どおりの藩とあわせて府県藩の三治制がとられた。そして,各府県藩から推挙された代議員(貢士)を構成員とする議事機関(議政官の下局)を整え,諸政策をすすめる上で不可欠な諸藩の合意を確保しようとした(議政官下局はのち,公議所,集議院と改組され,左院へと受け継がれる)。


版籍奉還の上表

【史料解説】  これは1869年1月薩摩・長州・土佐・肥前4藩の重臣が,4藩主の名をもって提出した版籍奉還の上表文。これは木戸孝允と大久保利通がそれぞれの藩主を説得し,さらに土佐・肥前をまきこんで実現させたもので,戊辰戦争の終結後に各藩が割拠の勢いをもつことを防ぐため,各藩主の自発的な返上により天皇・太政官政府による全国掌握を実現させようとしたものだ。薩長土肥4藩主の上表にともなって他藩主も同様の建白書を提出したことをうけて,戊辰戦争の終結(5月)と共に,新政府は6月版籍奉還を断行した。旧藩主をそのまま知藩事に任命し(家禄として石高の10分の1を給与),藩政をとらせた。これ以降,全国の土地・人民は天皇と太政官政府が支配するものであり,知藩事をはじめ藩の重臣は中央政府から任免される官吏であるという形式が整えられ,廃藩置県が論理的に可能となった。