目次

6 中央集権化の進展 −1874〜1877年−


政治史 明治6年の政変ののちに政府の実権を握ったのは大久保利通だ。1873年地方行政・警察行政・殖産興業を統轄する官庁として内務省を設置し,中央集権的支配を確保しようとした。ところが,徴兵制などの改革によって旧来の特権を失った士族の不満は大きく,征韓論争による政府の分裂(明治6年の政変)を機に反政府運動へと発展する。

1 士族による反政府運動の組織化

 征韓論争に敗れて政府を去った板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らは1874年愛国公党(最初の政党)を結成し,民撰議院設立建白書を太政官の左院に提出した。五箇条の誓文で掲げられた公議世論の尊重を正統性のよりどころとして,政治への発言権の回復をはかったのだ。

民撰議院設立建白書
(1)批判の対象…大久保・岩倉ら=有司専制
(2)主張…納税者には参政権がある→民撰議院の設立を要求

 民撰議院設立建白書が新聞『日新真事誌』(イギリス人ブラックが創刊)に掲載されたことがきっかけとなって,国会の開設を要求する動きが高まり,自由民権運動が始まった。板垣が1874年高知で結成した立志社など,各地で政社(政治団体)が組織され,1875年には政社の全国組織として愛国社が大阪で結成された(本部は東京)。
 この時期の民権運動は士族が中心で(士族民権),彼らは人びとの活力を公選制の議会を通じて国家のもとにまとめあげ,国権の確立をはかろうと構想していた。民権を伸長することこそが国権を確立・拡張する基礎だという主張だ。
 もう一つの反政府運動として,武力蜂起により政府の転覆をめざすという動きもあった。士族反乱だ。民撰議院設立建白書に署名したひとり江藤新平は,1874年佐賀へもどり,征韓を主張する士族たちに擁されて挙兵した(佐賀の乱)。

征韓派前参議の動向
板垣退助               →1874年立志社を結成
江藤新平  民撰議院設立建白書に署名 →1874年佐賀の乱で敗死
副島種臣               →民権運動には参加せず
西郷隆盛=民撰議院設立建白には参加せず→鹿児島で私学校を設立


文化史 1851年本木昌造が鉛活字の鋳造に成功したことを背景として,明治期になると,新聞や雑誌がさかんに発行されるようになった。

2 ジャーナリズムの出現

 1871年日本最初の日刊紙『横浜毎日新聞』が創刊されて以降,さまざまな新聞が発行される。イギリス人ブラックの『日新真事誌』,福地源一郎の『東京日日新聞』,前島密の『郵便報知新聞』などが有名だ。
 1873年には森有礼の提唱で明六社が組織され,翌年『明六雑誌』を創刊した。西周・津田真道・中村正直・福沢諭吉・加藤弘之らが参加し,欧米の風習・思想を紹介していった。

明六社
森有礼……薩摩出身・のち初代文部大臣として学校令を制定
中村正直…『西国立志編』・『自由之理』を訳出
福沢諭吉…『西洋事情』『文明論之概略』で欧米思想を紹介
加藤弘之…『国体新論』で天賦人権論を展開→のち『人権新説』で社会進化論に基づき天賦人権論を否定・東京大学初代総長

 自由民権運動がはじまると,新聞や雑誌は政治的意見を戦わす場へと転化していく。成島柳北主宰・末広鉄腸主筆の『朝野新聞』などが激しく政府批判をくりひろげ,国会開設をめぐり加藤弘之らの時期尚早論と大井憲太郎らの開設論のあいだで論争が行われた。
 これに対して,政府は1875年讒謗律・新聞紙条例を出して新聞・雑誌に対する取締りを強化した。その厳しさは,ほぼ全ての会員が政府の官吏だった明六社が『明六雑誌』を自主廃刊するほどのものだった。


政治史 政府は民権派に対し,言論統制を強化する(ムチ)一方,彼らの主張をとり込むこと(アメ)によって事態をしずめようとした。

3 立憲政体への準備

 1875年大久保利通は,民権派の中心人物板垣退助や,台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允と大阪で会合し(大阪会議),憲法にもとづく政治体制を徐々に実現するという漸次立憲政体樹立の詔を出すかわりに,板垣・木戸の参議への復帰を実現させた。そのため,愛国社はほとんど活動もしないままで自然消滅してしまった。

漸次立憲政体樹立の詔
(1)元老院………立法上の諮問機関→1876年憲法草案の作成に着手
(2)大審院………最上級の裁判所
(3)地方官会議…民情を把握するために府知事・県令を招集
        →1878年三新法を制定


外交史 政府は,外交面での懸案事項を解決して国権を確立していく。外征を掲げる不平士族の要望に応えながら,同時に,彼らから政府批判の標的を奪いとろうとしたのだ。

4 国権外交の展開

 明治初期の日本が外交上の緊張をかかえていたのは,(1)琉球(沖縄)−台湾,(2)北海道−樺太,(3)朝鮮,(4)小笠原諸島,の4つだ。日本の国家領域をどのように設定するのかをめぐる懸案だった。

明治初期の国権外交
(1) 台湾出兵(1874年)
 背景…台湾で宮古島民が殺害された(1871年)
 内容…西郷従道を中心とする軍隊を台湾へ派遣
    →木戸孝允が反対して参議を辞職
 結果…清に日本の軍事行動を義挙と認めさせる=琉球の領有を強調
(2) 樺太・千島交換条約(1875年)
 背景…日露雑居の地だった樺太で日露関係が緊迫
 内容…樺太をロシア領,千島列島すべてを日本領
(3) 江華島事件(1875年)
 背景 朝鮮で大院君が失脚し,国王妃閔妃一族が実権
 内容 軍艦雲揚が朝鮮沿岸で測量・海洋演習を強行→江華島で交戦
 結果 日朝修好条規の締結(1876年)
     全権=黒田清隆・井上馨
     朝鮮を「自主ノ邦」と規定=清との宗属関係を否認
     釜山ほか2港の開港(→のち仁川・元山に決定)
     不平等条約=日本に対し領事裁判権を承認・関税を免除
(4) 小笠原諸島の領有(1876年)
 背景…イギリス・アメリカとのあいだで帰属が不明確
 内容…小笠原諸島の領有を宣言→内務省が管轄


政治史 アメとムチを使い分けて民権運動を抑えこみ,国権外交により不平士族の政府批判の標的を奪い,政府は政権基盤を確保していった。

5 士族反乱と中央集権体制の確立

 華族・士族に支給されていた秩禄(江戸時代以来の家禄+戊辰戦争の際の賞典禄)は総支出の約30%を占め,大きな負担となっていた。そこで,民心を統合するための基本国策に殖産興業をすえた政府は,1876年金禄公債証書発行条例を制定し,華族・士族に金禄公債証書を交付するかわりに秩禄を全廃した(秩禄処分)。
 多額の公債を交付された華族や上級士族は,それを投資することで経済的な安定をえたが,大部分の下級士族は没落せざるをえなかった。そして,同76年士族の武装解除を徹底させて治安を確保するために廃刀令が出されたこととあいまって,士族反乱が続発した。

士族反乱
(1)佐賀の乱……1874年 佐賀・江藤新平
(2)神風連の乱…1876年 熊本・大田黒伴雄ら神風連(敬神党)
(3)秋月の乱……1876年 福岡・旧秋月藩士族
(4)萩の乱………1876年 長州・元参議前原一誠
(5)西南戦争……1877年 薩摩・西郷隆盛

 士族反乱はすべて政府軍により鎮圧され,中央集権体制がようやく整った。とはいえ,同時期に推進された地租改正事業が各地で反対一揆を引き起こし,なかでも1876年の伊勢暴動(三重県など)・真壁暴動(茨城県)は大規模なものだった。そのため,政府は地租改正反対一揆と士族反乱との結びつきを恐れ,1877年地租を地価の3%から2.5%に引き下げた。


経済史 民間の自主的な経済活動こそが国家の自主独立(富国強兵)の基礎になる−−そう考えた大久保利通内務卿は,民心を統合する基本国策として殖産興業を掲げた。

6 殖産興業政策の展開

 政府は当初,官営中心の殖産興業政策をすすめたものの,財政資金の不足から行き詰まった。そこで,大久保内務卿はその政策を修正し,政府の指導・保護のもとで在来産業の技術改良に取り組んでいく。

殖産興業
担当官庁…工部省(1870年設置)・内務省(1873年設置)
官営事業…(1)幕府・諸藩が経営していた鉱山・軍事工場を継承
       江戸関口大砲製作所→東京砲兵工廠
       横須賀製鉄所→横須賀造船所(のち横須賀海軍工廠)
     (2)官営模範工場=欧米技術の民間への導入を促進
       群馬県に富岡製糸場(1872年・フランス人技師)
技術改良…内国勧業博覧会=第1回を1877年上野公園で開催

 こうしたなかで綿織物業が生産を回復してくる。原料糸を輸入綿糸にかえ,飛び杼を取り入れて,農村での問屋制家内工業を中心に発展していく。だから,輸入の中心品目が綿織物から綿糸へと変化していたのだ。また綿紡績業でも,臥雲辰致が第1回内国勧業博覧会に出品したガラ紡(水車を動力とする紡績機械)が普及していった。
 輸出入をになう海運業は,当初欧米資本がほぼ独占していたが,政府はそれに対抗して,岩崎弥太郎の三菱会社(郵便汽船三菱会社)に保護を与えた。三菱会社は台湾出兵・西南戦争の軍事輸送をにない,さらに長崎−上海間の定期航路に進出し,ついにはイギリス・アメリカの汽船会社を排除して上海航路を独占する。
 こうして日本の産業はしだいに国際的な競争力を強めていった。しかし,産業資金の不足は否めなかった。そこで政府は,1876年国立銀行条例を改正して銀行券の兌換義務を取り除き,金禄公債証書による出資を認めるなど,国立銀行設立の条件を緩和した。そのため,華・士族や地主らによる設立があいつぎ,全国で153行の国立銀行が設立された。


文化史 神道国教化にはじまる政府の宗教政策は解体し,各宗教に信教の自由を容認する方向へと転換しはじめていく。

7 宗教政策の転換

 神道国教化政策は1870年代初めにすでに失敗におわり,かわって教部省のもとで,神道・仏教・民間宗教を動員した国民教化運動が進められていたが,これに対しては信教の自由の立場から批判がでてくる。浄土真宗本願寺派の僧侶島地黙雷が政治と宗教の分離を主張し,浄土真宗各派は大教院を脱退。さらに明六社同人からも政教の混同への批判がでてくる。その結果,政府は1875年大教院を解散し,1877年教部省も廃止した。
 五榜の掲示で示されたキリスト教禁制政策も崩れる。そのきっかけとなったのが浦上信徒弾圧事件(1868〜73年)だ。政府は長崎浦上地方の隠れキリシタンたちを捕らえて各藩にあずけ,信仰の放棄を強要しようとしたのだ。ところが欧米諸国の抗議にあい,1873年政府はキリシタン禁制の高札を撤去して,キリスト教の信仰を黙認するに至っていた。

8 高等教育の整備

 政府は多くの外国人教師(御雇外国人)をまねいて西洋の学問・技術の受容につとめ,各分野での指導者の養成をめざした。

高等教育機関
工業技術や建築…工部大学校→辰野金吾(建築)・高峰譲吉(化学)ら
西洋美術…………工部美術学校→浅井忠(フォンタネージに学ぶ)ら
洋式農業技術……東京に駒場農学校・北海道に札幌農学校→内村鑑三ら
官僚の養成………東京大学=1877年開成所や医学所を母体として設立・初代総長加藤弘之

御雇外国人
コンドル…………イギリス・工部大学校・建築→鹿鳴館・ニコライ堂
フォンタネージ…イタリア・工部美術学校・油絵
ラグーザ…………イタリア・工部美術学校・洋風彫刻
モース……………アメリカ・1877年大森貝塚(東京都)を発掘調査
フェノロサ………アメリカ・日本美術の研究
ナウマン…………ドイツ・地質学→フォッサマグナ・ナウマン象
ベルツ……………ドイツ・内科医・『ベルツの日記』で有名
クラーク…………アメリカ・札幌農学校

民間の高等教育機関
慶応義塾………福沢諭吉,1858年創立
同志社…………新島襄,1875年創立・海老名弾正や徳富蘇峰が学ぶ
東京専門学校…大隈重信,1882年創立・教員に小野梓や坪内逍遥ら

9 庶民の娯楽

 文明開化の風潮のなかで,西欧文化がひろまりはじめていたとはいえ,庶民生活のレベルでは,江戸時代とあまり変わっていなかった。
 政治的議論を主眼とする新聞(大新聞)に対し,庶民のあいだには,社会面ニュースや大衆娯楽を重視する小新聞が普及していた。「読売新聞」や「朝日新聞」など,江戸時代の瓦版の系譜をひくものだ。そうした小新聞を中心に,仮名垣魯文『安愚楽鍋』など,江戸時代以来の戯作文学が庶民の人気を博していた。
 また,寄席や見せ物小屋で演じられるさまざまな芸能(講談や落語など)も,庶民の娯楽として大きな位置をしめつづけており,なかでも落語では三遊亭円朝の『怪談牡丹灯籠』などの怪談噺が人気を得ていた。


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