目次

14 政党政治の展開 −1924〜1931年−


政治史 加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立して以降,たったの8年間だが,衆議院の多数党が内閣を組織する政党内閣制が慣行として続いた。元老西園寺公望によって調整された2大政党の政権交替の時代だ。

1 憲政の常道

 1924年から1931年まで続いた憲政の常道は,衆議院の多数党(第1党とは限らない)の総裁が元老西園寺の推挙をうけて首相に就任し,政党を基盤として内閣を組織する政治運営のあり方だ。
 明治〜大正前期と違い,元老は西園寺ただ一人であり,西園寺は山県有朋のように官僚や陸軍などを統合する人的ネットワーク−政治力−を持たない。その条件のもとで元老西園寺は,天皇が裁定を下すという事態を回避して天皇を政争の圏外に安置することを願い,政党の政権担当能力と民衆を統合する力に期待したのだ。
 こうして議会を中心とする政治運営がようやく定着したが,政党内閣の政策は貴族院・枢密院・陸海軍の動向に左右された。とりわけ,陸海軍の存在がネックで,陸海軍の動向が憲政の常道を崩壊に導いていく。


経済史 関東大震災による経済界の混乱は,日本経済に大きなキズ跡を残した。(1)被災地の復興事業にともなって輸入が急増して大幅な輸入超過となったため円為替相場が大きく下落し,1917年の金輸出禁止(寺内正毅内閣が実施)より以前の相場(旧平価:1ドル≒2円)を回復するには至らなかった。さらに,(2)不良債権と化した震災手形の処理がなかなか進まず,銀行に対する信用不安がひろまっていた。

2 金融恐慌

 アメリカやイギリスが金輸出を解禁して国際金本位制に復帰するなか,経済面での国際協調を実現させるためには,日本も金解禁をおこなう必要があった。しかし,国際金本位制のもとでの自由貿易システムに復帰するためには,不良債権化した震災手形の処理をすすめて経済界を整理することが先決だった。
(1)発生 2億円あまりが未決済のまま残っていた震災手形の処理をすすめたのが憲政会の第1次若槻礼次郎内閣。ところが,1927年3月議会で関連法案を審議中,片岡直温蔵相の失言によって一部の銀行の不良な経営状態が明らかになると,取付け騒ぎがおこった(金融恐慌)。人びとが預金の引き戻しに殺到したのだ。
 さらに,台湾銀行が鈴木商店に対して巨額の不良債権をかかえていることが明らかになり,鈴木商店が倒産においこまれると台湾銀行は破産の危機に直面した。その結果,取付けが全国に拡大し,華族の出資による十五銀行など,休業する銀行があいついだ。
(2)対応 植民地台湾の中央銀行である台湾銀行の破産を回避するため,若槻内閣は緊急勅令によって日本銀行に非常貸出しをおこなわせようとしたが,枢密院の反対で失敗。同年4月総辞職した。
 かわって成立したのが,立憲政友会の田中義一内閣(蔵相高橋是清)。高橋蔵相はモラトリアムを実施するとともに,日本銀行の特別融資により金融恐慌をしずめた。

金融恐慌
若槻礼次郎内閣(憲政会):片岡直温蔵相=失言→金融恐慌を招く
田中義一内閣(政友会) :高橋是清蔵相=モラトリアム→金融恐慌を鎮静

(3)結果 金融恐慌によって中小銀行の多くは経営破綻に追い込まれ,さらに1927年制定の銀行法によって整理されていった。その結果,普通銀行の数は1926年の1420行から1929年の881行へと減少し,さらに預金は財閥系の三井・三菱・住友・安田・第一銀行(5大銀行と総称)に集中した。こうして財閥は金融面からの産業支配力を強めていった。


外交史 金融恐慌に際し,枢密院はなぜ緊急勅令案を否決したのか。中国に原因があった。枢密院(伊東巳代治ら)は憲政会内閣の幣原外交に不満で,憲政会内閣にかえて政友会内閣を登場させ,そのもとで中国に対する外交政策を強硬外交へと転換させることをねらっていたのだ。

3 中国国民革命の進展

 当時の中国情勢はどうだったか。不平等条約のもとで列国の経済活動の自由が保障されて半植民地状態にあり,独立国としての地位が確保されていたとはいえ,統一国家としての実質がともなっていなかった。華北では政府の実権をめぐって各地の軍閥が抗争をくりひろげ,華南の広州には孫文ら中国国民党が勢力をもっていた。
(1)日本の軍閥支援 内政不干渉を掲げる幣原外交のもと,日本は奉天軍閥張作霖を支援することで南満州・東部内蒙古(満蒙)の権益を確保していたが,張作霖は北京に進出して中国政府の実権を握っていた。
(2)第1次国共合作 他方で,孫文ら中国国民党によって中国国民革命が始まる。中国の統一実現と独立回復をめざす動きだ。第一歩として1924年第1次国共合作が成立した。孫文は,英米日を頂点とする国際秩序(ワシントン体制)のもとで現状を変革するにはソ連と提携するのが得策と判断し,中国共産党との提携関係を築きあげたのだ。しかし孫文は翌年に死去し,かわって蒋介石が中国国民党の実権を握る。
(3)北伐の開始 1926年7月蒋介石が北伐を開始。各地に割拠する軍閥を打倒・統合し,軍閥による北京政府を打倒することをめざす内戦だ。
 ところが,北伐が進展するなかで共産党の指導する反帝国主義運動が高まり,南京で北伐軍兵士による外国人襲撃事件がおこると,1927年3月イギリス・アメリカが軍事介入−日本は幣原喜重郎外相(若槻内閣)のもと,イギリスの共同出兵要請を拒否−。その結果,4月蒋介石は共産党を弾圧,南京に国民政府を樹立した。

北伐
蒋介石:広州で北伐開始(1926年)→南京国民政府を樹立(1927年)
    →北京を占領(1928年)→奉天軍閥張学良も合流(1928年)

4 田中外交の展開

(1)中国への強硬外交 政友会の田中義一内閣は,田中首相が外相兼任。内政不干渉の幣原外交とは違い,武力行使をおこなった。

田中外交
(1)山東出兵(1927〜28年)→済南事件(1928年)で国民革命軍と衝突
 目的…国民革命軍(北伐軍)の北上を妨害・張作霖を支援
(2)東方会議(1927年←中国に関係する軍人・外交官)
 対支政策綱領=満蒙権益を実力でまもることを決定

 張作霖の敗勢が濃厚となると,田中内閣は張に対して満州への帰還を要請,張はそれに従った。ところが関東軍が暴走!。1928年張作霖を奉天郊外で列車ごと爆殺し,これに乗じて満蒙を軍事占領しようとしたのだが,失敗した(張作霖爆殺事件)。この事件は当時,満州某重大事件とよばれ,田中内閣も陸軍の抵抗により真相の解明・責任者の処罰をおこなえなかった。そのため,昭和天皇(裕仁)の信任を失い,田中内閣は総辞職に追い込まれた。
(2)英米協調の追求 中国に対して強硬外交をおこなった田中内閣も,イギリス・アメリカとの協調に努め,1928年不戦条約に調印した。これにより戦争が国際法上の違法行為とされ(自衛のための戦争は除外),戦争再発の防止にむけた国際協調体制がさらに整っていった。


政治史 中国でも日本でも共産党の存在が次第にクローズアップされてくる。日本共産党は,関東大震災後いったん自主解散したものの,1926年再建され,天皇制の打倒を掲げて活動しはじめていた。

5 共産党勢力の台頭

(1)普通選挙の実施 普通選挙法の成立にともない,農民組合・労働組合を基盤として社会主義政党が組織された(無産政党と称された)。1926年労働農民党が結成されたが,共産党系の日本労働組合評議会の加盟問題をめぐってまもなく分裂。社会民衆党(安部磯雄ら)・日本労農党・労働農民党(共産党系)に分かれた。
 普通選挙が初めて実施されたのは,田中義一内閣のときの1928年総選挙。無産政党からの当選者は安部磯雄(社会民衆党)・山本宣治(労働農民党)ら8名にすぎなかったが,天皇制打倒を掲げる共産党が公然と選挙活動をおこなったことは,田中内閣にとって衝撃だった。
(2)共産党への弾圧 田中内閣は,1928・29年と2度にわたって共産党員とその支持者を大量に逮捕し(三・一五事件,四・一六事件),労働農民党・日本労働組合評議会など関係団体を解散させた。
 さらに,共産党に対する弾圧体制を強化するため,1928年治安維持法を改正して最高刑に死刑を導入,特別高等警察(特高)を各府県にも設置した。


経済史 国際協調体制のもとで,日米両国の相互依存関係は深まっていく。日米協調を経済・金融面からも実現するため,日本は国際金本位制への復帰とそれによる円為替相場の安定が求められた。

6 井上財政と昭和恐慌

(1)金解禁 立憲民政党の浜口雄幸内閣(井上準之助蔵相)は,国際本位制への復帰をめざした。
 日本は,1917年の金輸出禁止いらい,関東大震災や金融恐慌などのため,国際金本位制へ復帰することができず,円為替相場は下落と動揺をくりかえしていた。貿易取り引きの決済の手段として金が使えないため,支払いのためには円とドルなど外貨との売買が不可欠となり,現在と同じように,為替相場がその時々の経済状態に応じて変動していたのだ。
 たとえば,日本がアメリカに対して輸入超過(貿易赤字)のときには,円を売ってドルを購入しようとする動きが強くなるのでドル高・円安となる。当時の日本経済は,工業の国際競争力が不足し,さらに恐慌の際の過剰な特別融資によって国内物価がインフレ傾向にあったため,輸出が伸びず,そのうえ震災後の復興事業のために輸入が増えたこともあって,貿易収支は輸入超過だったのだ。
 こうした経済状態のなか,井上蔵相は旧平価(1917年の金輸出禁止より以前の相場:1ドル≒2円)で金解禁(金輸出解禁)を断行しようとした。つまり,国際金本位制に復帰する際に,円を実質的に切上げようとしたのだ。円為替相場とは日本経済の国際的な信用を示す指標だから,国際信用をなんとしてでも維持しておきたかったわけだ。
 しかし,円高は輸出に不利。そこで,緊縮財政により物価を引下げ,各企業に産業合理化をおこなわせて,国際競争力をつけていった。こうした準備を済ませてから,1930年1月金解禁を断行した。
 こうして国際金本位制のもとでの自由貿易システムに復帰したことによって,かえって産業合理化をさらに推進させる環境が整った。浜口内閣は,1931年重要産業統制法を制定してカルテル結成を助長し,経済界の整理を進めた。

井上財政
 ○緊縮財政→物価の引下げ(デフレ)
 ○産業合理化:国際競争力の育成
 ○金解禁:円為替相場を旧平価で安定→事実上の円切上げ

(2)昭和恐慌 日本経済は金解禁により不況におちいった。それだけでない。前年の1929年10月ニューヨーク・ウォール街での株価暴落によりアメリカで恐慌が発生して世界恐慌へと発展しつつあったため,日本経済は二重の打撃を受ける。輸出が激減して正貨が大幅に流出し,企業の操業短縮・倒産や労働者の解雇・賃金引き下げが相次いだ。昭和恐慌だ。
 恐慌は農村にも及んだ。アメリカ向けの生糸輸出が激減したために原料繭の価格が暴落し,繭を生産する養蚕農家が打撃をうけた。さらに,1930年米の豊作により米価が暴落し,翌31年には東北・北海道が冷害により大凶作となった。農業恐慌だ。しかも都市の失業者が帰農したため農村の困窮が深まり,子女の身売りや欠食児童が増加した。
 こうした生活の困窮から労働運動・農民運動が激化した。鐘淵紡績争議などの大争議が各地で発生,労働争議は1931年第2次世界大戦前の最高件数を記録。小作争議も激増した。


外交史 世界恐慌により列国間の経済的な相互依存関係に動揺が生じていた頃,国際協調体制も動揺しつつあった。

7 国際協調外交の動揺

(1)幣原外交の復活 浜口内閣は外相に幣原喜重郎をすえ,中国に対する協調外交を復活させた。幣原外相は,不平等条約改正をもとめる中国国民政府の要求にこたえ,中国の関税自主権を承認した。外交交渉を通じて満蒙の権益を確保しようと努力したのだ。
 ところが,満州某重大事件の後,張作霖のあとを継いだ張学良は,1928年末,蒋介石と和解して国民政府に合流し,国権回復運動を推進した。満鉄に代表される権益を中国へと取り戻そうとする動きをみせたのだ。
 そのため,中国とソ連・日本との間に紛争が頻発し,日本国内では“満蒙は日本の生命線”との立場から幣原外交を軟弱と攻撃する動きが強まっていった。
(2)海軍軍縮の継続 ワシントン会議(1921〜22年)・ジュネーブ会議(1927年)が補助艦の制限に失敗したあとをうけ,1930年ロンドン海軍軍縮会議が開催される。浜口内閣は若槻礼次郎・財部彪海相らを全権として派遣した。フランス・イタリア両国との交渉は失敗に終わったが,4月英米日の3国間でロンドン海軍軍縮条約が調印された。

ロンドン海軍軍縮条約
補助艦…保有量を制限→英米:日=10:6.975(対米7割を下回る)
主力艦…ワシントン条約による建造休止期限を1936年末に延長

 対米7割を確保できなかった点に対して,海軍の作戦計画の遂行にあたる海軍軍令部が反発。政友会・枢密院の一部も同調し,加藤寛治軍令部長の反対をおしきって兵力量を決定したのは統帥権の干犯だと,浜口内閣を攻撃した(統帥権干犯問題)。陸海軍の兵力量の決定(編制大権)は天皇大権であるものの内閣の輔弼事項で,統帥権とは別のものだったが,軍令部は兵力量の決定についても軍令部の同意が必要と解釈していたため,憲法解釈をめぐって対立が生じたのだ。
 浜口内閣は元老西園寺公望の支持のもとで条約批准を実現させたが,11月浜口首相は狙撃されて重傷を負い,翌31年死去した。


文化史 都市の新中間層を担い手,マスメディアを舞台として大衆文化が登場した。背景は,①電力の普及により工場の機械化が完全に達成され,規格化された商品を大量生産・大量消費するシステムが整ったこと,②新聞・雑誌やラジオ・映画など,同一の情報を一挙に大量の人間に伝達することを可能とするマスメディア(マスコミ)が発達したこと,③高等教育が普及し,新中間層が登場したこと。しかし,大衆文化は農村には十分には及ばず,都市と農村にはさまざまな格差があった。

8 都市大衆文化の登場

(1)マスメディアの発達 新聞・雑誌が発行部数をのばした。「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」が発行部数を100万部を突破,また「週刊朝日」「サンデー毎日」などの週刊誌,大衆雑誌「キング」(1925年・大日本雄弁会講談社)などが創刊された。また,1925年には東京・大阪・名古屋でラジオ放送が開始され,1890年代に輸入されて活動写真とよばれていた映画が大衆娯楽として人気を博した。レコードも大量に売れはじめ,歌謡曲が全国に流行するようになった。
(2)文学 プロレタリア文学がさかんだったが,それ以上に人気を博したのが大衆文学(大衆小説)。新聞や大衆雑誌に時代小説・探偵小説などが連載され,中里介山(『大菩薩峠』)・大佛次郎(『鞍馬天狗』)・菊池寛・直木三十五らが活躍した。
(3)教養の大衆化 文学全集などを定価1円という低価格で出版する円本や文庫本が登場。教養・学問の成果を広く人びとに提供していった。
(4)都市生活の変化 衣食住の洋風化がすすんだ。洋服の普及,和洋折衷の食生活,日本製の洋風住宅様式である文化住宅などが登場した。女性の社会進出も顕著になり,いわゆる職業婦人が出現した。
(5)学問 人文科学では,マルクス主義が知識人層に強い影響を与え,野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』などが出版された。自然科学では,1926年八木秀次が短波用アンテナ(八木アンテナ)を発明し,無線通信の発展に貢献した。


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