目次

20 高度経済成長 −1956〜1974年−


外交史 鳩山一郎内閣と続く石橋湛山内閣は対米自主外交を展開しようとしたが,岸信介内閣はアメリカ重視の姿勢を復活させ,その上で日米関係をより対等なものに変えていこうとした。

1 日米安保条約の改定

(1)安保改定 岸内閣は,新憲法に象徴される戦後体制の打破をめざして国家統制の強化をはかる一方,戦前の最高水準を回復した日本の経済力を背景として,東南アジア諸国を歴訪して賠償協定の名を借りて経済進出の足がかりをつかみ,さらに日米新時代をスローガンとして日米関係をより対等にすることをめざした。そのため,防衛力整備計画をスタートさせて再軍備を強化し,アメリカ(アイゼンハワー大統領)との交渉にのぞんだ。その結果,1960年1月日米相互協力及び安全保障条約(日米新安保条約)が調印された。

日米新安保条約
日本領域の防衛を日本・アメリカの共同義務とする
 →アメリカの日本防衛義務を明記
アメリカ軍の日本駐留…≪目的≫@日本の安全,A極東の平和・安全
在日アメリカ軍の軍事行動に関する事前協議制
日米経済協力の強化
不平等な点を改正  内乱条項・第三国の駐留禁止事項の削除
 10年の条約固定期限

 こうした改定により,条約の双務性が確保され,日米の対等関係が一歩前進したかのように見えるが,旧条約で保証されていたアメリカの一方的な特権は温存されており,新たに追加されたのは,実質的には,日本が日本領域の防衛に責任をもつことだけだ。つまり,日本領域は日本が防衛し,アメリカは基地自由使用の特権を享受して極東地域における軍事行動の自由を確保するというアメリカの構想が,安保条約の改定により実現されたのだ。
(2)安保闘争 このように日米安保条約の改定は日本をアメリカのアジア軍事戦略に深く組み込むものだったため,日本が戦争に巻き込まれる危険性があると懸念され,総評・社会党や共産党などが安保改定阻止国民会議を結成して反対運動(安保闘争)を展開した。そして,1960年5月岸内閣が衆議院に警官隊を導入して新安保条約の批准を強行採決すると,自民党内部からも批判が高まり,それまで新安保条約に中立的だった人びとまでもが参加して反対運動が急速に盛り上がっていく。岸内閣の強硬姿勢は民主主義を破壊し議会政治を否定するものだとの反発が強まったのだ。
 こうした安保闘争の全国的な高まりに対し,岸内閣は自衛隊出動による鎮圧も考慮したが断念し,予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日も延期した。とはいえ,参議院での審議・議決を経ないまま,6月に新安保条約が自然成立し,それにともなって岸内閣が退陣すると,安保闘争は退潮にむかった。


経済史 かわって成立した池田勇人内閣は“寛容と忍耐”を掲げて野党勢力との摩擦をさけ,経済成長をさらに促進することによって政治的安定を確保しようとした。その結果,日本は驚異的な経済成長をとげてアメリカ産業をおびやかしていく。

2 高度経済成長

(1)政治の季節から経済の季節へ 1950年代後半から日本は約20年にわたって高度経済成長を遂げる。神武景気(1955〜57)から,岩戸景気(1958〜61),オリンピック景気(1963〜64),いざなぎ景気(1966〜70),列島改造景気(1972〜73)と好況を連続させたのだ。その結果,鉄鋼・造船だけでなく,家庭電化製品や自動車などの耐久消費財を生産する機械製造業,合成ゴム・プラスチック・合成繊維など新素材を生産する石油化学工業などが発展して重化学工業化が進むとともに,1968年にはGNP(国民総生産)がアメリカに次ぎ資本主義陣営第2位となった。
 こうした高度経済成長をもたらした基本的な要因は,戦後民主化政策による経済構造の変革だった。農地改革・労働改革によって国内の消費市場(国内需要)が拡大し,また財閥解体は,不徹底な結果に終わったとはいえ,企業間の自由競争を保障した。つまり,拡大した国内需要に対応するため,各企業がアメリカの先進技術を導入(技術革新)して生産性を高めながら工場設備の増設・拡充(設備投資)を競いながら量産体制を整えていったことが,経済成長の原動力だった。
 さらに,中東で石油が発見され,アメリカ企業などが採掘権を独占したために安価な石油を確保できたことが,活発な設備投資と重化学工業化の基礎だった。燃料が石炭から石油へと転換(エネルギー革命)してコスト削減が実現し,石油化学工業の発展をうながしたのだ。しかし,他方では石炭産業の急速な斜陽化を招き,1960年には三井三池炭鉱争議がおこった。
 経済成長を促進させた要因として政府の経済政策も忘れてはならない。
 自民党内閣は,1950年代後半から長期経済計画を立案し,それにもとづいて経済成長・生活水準の向上・完全雇用の実現をめざしていた。なかでも,1960年池田内閣が掲げた国民所得倍増計画は,巧みなネーミングもあって,企業の投資意欲をかきたてるのに成功した。実質国民総生産(GNP)を10年間で倍増するという目標を掲げたことが,日本経済の潜在的な力量に対する確信を強め,経済成長を加速させる心理的要因となったのだ。そして,道路・鉄道・港湾など産業基盤の整備を公共事業として進め,郵便貯金・厚生年金などを財源として財政投融資をおこなう一方,民間企業の設備投資を促進するため,税制上の優遇措置を設けたり,資金調達が容易になる低金利政策をおこなった。

高度経済成長
1.基本的な要因…戦後民主化政策による経済構造の変革
 農地改革・労働改革→国民の所得水準が向上(国内需要の拡大)
 財閥解体→企業間の自由競争が保障
2.内容
 設備投資・技術革新→量産体制の整備
 重化学工業化の進展←エネルギー革命(石炭から石油への転換)
3.結果・影響
 消費革命→大量生産・大量消費が日常化=大衆消費社会の出現
 都市における公害・過密,農山漁村の過疎

(2)貿易構造の変化 経済成長にともなって輸出が拡大した。なかでも,繊維製品に代わって重化学工業製品が輸出の中心となった。背景は,1.1ドル=360円の固定相場が維持されたため,経済成長の結果,円安となって輸出に有利に働いたこと,2.1960年代後半以降,ヴェトナム戦争にともない軍需産業を中心として好況が長期にわたって持続したアメリカ向けの輸出が拡大したこと,の2つだ。そして,輸入のなかで比重が高まっていた石油価格が安価だったため,1960年代後半以降は大幅な貿易黒字が続いた。
 ところが,アメリカ向けの輸出が拡大したことは,アメリカとの貿易摩擦を招く。貿易摩擦はすでに1950年代からはじまっていたが,当初は繊維製品が対象だったのが,重化学工業の発展にともなって,次第に重工業製品へと変化していった点にこの時期の特徴があった。
(3)日本的労使関係の成立 技術革新をともなった経済成長は,労働環境を変化させ,労働運動を変貌させた。1950年代には鉄鋼・電機・石炭などの産業部門で大きな労働争議がおきていたが,それに対して経営者側の主導のもとに生産性向上運動が進められた。労働者を主体とする職場づくりではなく,経営者が与えた目標のなかで従業員相互の競争を促進しながら自発性を喚起し,生産性を向上させていこうとする動きだ。また,技術革新によりオートメーション化が進んで作業内容が単純化したため,旧来の熟練労働者を中心とした自律的な職場集団は解体し,労働組合の職場に対する規制力が低下していった。1960年の三井三池炭鉱争議は,そうした経営者側の労務管理政策と職場の自律的規制をめざす労働組合との対立のピークとなるもので,労組側の敗北は日本的労使関係成立のひとつのメルクマールとしての意味をもった。

日本的労使関係
1.企業別労働組合…労働組合が企業ごとに組織される
 →企業と従業員との一体感のもとで労務管理の補助機関化
2.終身雇用制…同じ企業に一生勤務
3.年功序列賃金…賃金が勤務年数に応じて上昇

 こうして労働運動では,企業業績の向上に奉仕することが高賃金をもたらすとの発想が主流となった。賃上げ闘争が活動の中心をしめ,1955年に総評のもとで始まった春闘が,次第に全組織労働者の賃上げ闘争として定着していった。企業ごとの賃上げ交渉の時期を春季に集中させ,業績がよい企業が高い賃金相場を確保し,それを他企業へも波及させようとするもので,労働者の所得水準向上に大きな役割を果たした。
 また,労使協調的な企業別労働組合の連合体があいついで組織される。1964年総評に対抗して全日本労働総同盟(同盟)が結成され,さらに鉄鋼・電機・自動車など金属産業の労組によってIMF・JC(国際金属労連日本協議会)が所属の全国組織の枠をこえて組織された。
(4)農業・農村の変貌 経済成長のなかで第2次・第3次産業は発展したが,農業など第1次産業との格差が拡大した。そこで,池田内閣は1961年農業基本法を制定し,零細農家の離農を促進するとともに,経営規模が大きく生産性の高い自立農家の育成をめざした。その結果,農村では機械化が進んだが,経営規模拡大による生産性の向上はなかなか実現せず,都市化・工業化の拡大のなか,兼業農家が増加して農業が副業化する傾向が強くなり,食料自給率は低下した。

3 独占の復活

(1)企業集団の形成 大規模な設備投資には巨額の資金を必要としたところから,旧財閥系銀行を中核として企業集団が成立した。独占禁止法改正(1949・53年)により法人による株式保有や重役兼任などが認められたことを基礎として形成され,各企業が同じグループ内で株式を相互に持ち合って結束をはかり(株式持合),銀行がメイン・バンクとしてグループ内の企業に系列融資をおこなうことで,経営を長期的に安定させ,相互の利益を保障・拡大させようとしたのだ。

企業集団
1.株式持合,2.銀行の系列融資,3.人的結合(重役の兼任・社長会)
6大企業集団…三井・三菱・住友・芙蓉・第一・三和

(2)開放経済体制への移行 政府は当初,国際収支の安定や国内産業の保護・育成のため,きびしい貿易為替制限をおこなっていた。企業が輸出で獲得した外貨を政府に集中させ,限られた外貨をできる限り有効に用いるため,先進技術の導入に対しては優先的に外貨を割り当て,育成すべき産業部門については輸入への外貨割り当てを抑制することによって事実上の輸入制限をおこなっていたのだ。また,外国資本の日本進出も原則的に禁止していた。
 ところが,高度経済成長のなか,貿易や資本の自由化を求める動きが国際社会で強まる。それに応じて,政府は1960年「貿易為替自由化計画大綱」を決定し,1963年にはGATT11条国(国際収支上の理由で輸入制限ができない)に移行,同年輸入自由化率が90%を越えた。さらに翌64年にはIMF8条国(国際収支上の理由で為替制限ができない)に移行するとともに,発展途上国を援助するOECD(経済協力開発機構)に加盟し,資本の自由化を進めていった。
 こうした開放経済体制への移行にともない,国際競争力の強化をめざして企業の大型合併が進んだ。1964年には三菱重工業が再合併,1970年には八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日本製鉄が創立された。


文化史 高度経済成長は人びとの生活様式を大きく変化させた。急速な都市化が進んで,家庭生活に消費革命がおこる一方,公害・騒音などの都市問題が深刻化した。農村でも生活の近代化が進んだが,都市への大量の人口流出がおこって過疎化が進行した。

4 生活様式の変化

(1)大衆消費社会の出現 設備投資・技術革新によって量産体制が整うなか,家庭電化製品などの耐久消費財が爆発的に普及した(消費革命)。テレビ・電機冷蔵庫・電機洗濯機は1950年代後半から「三種の神器」と宣伝されて一般家庭に急速に普及し,60年代末からは自動車・クーラー・カラーテレビが3Cと称されて普及していった。そして,消費革命を支えたのはテレビなどマスメディアの発達であり,なかでもテレビから流される大量のコマーシャルが人びとの消費欲をかきたてた。
 こうして,大量生産された均質な耐久消費財と,マスメディアから提供される大量かつ共通の情報に囲まれ,生活様式・意識の均質化が進んだ。“人並み”の生活をしているという中流意識が強まっていったのだ。
 また,スポーツや文化の国際交流も進み,1964年の東京オリンピック,1970年の大阪万国博覧会などの国家的イベントが催された。
(2)公害問題 経済成長優先の政策は,深刻な公害問題をひきおこした。工場廃棄物による大気汚染・水質汚濁は人体に影響を及ぼし,1960年代後半には四日市ぜんそくを始めとする4大公害訴訟がおこった。また,1964年東海道新幹線が開通して鉄道の電化・高速化が進み,翌65年には名神高速道路が開通して高速自動車道路網の整備もめざましく進んだが,騒音や排気ガスによる大気汚染などの問題を招いた。
 そうしたなか,政府も公害対策に取り組みはじめ,1967年公害対策基本法を制定,1971年には環境庁を発足させた。

4大公害訴訟
四日市ぜんそく(三重県)…石油化学コンビナートの硫黄酸化物など
水俣病(熊本県)    …新日本窒素(チッソ)の有機水銀廃水
新潟水俣病(新潟県)  …昭和電工の有機水銀廃水
イタイイタイ病(富山県)…三井金属鉱業のカドミウム廃水

(3)高等教育の大衆化と学生反乱 もともと高等教育は国家や産業社会などで指導的な役割を果たすエリートを養成する特別なものだったが,高度経済成長にともなう生活の向上により高等教育への就学率が高まり,高校・大学の大衆化が進んだ。そうしたなか,それまでの大学での学問・教育のあり方,「平和と民主主義」のあり方そのものへの問いかけや異議申立てが学生のなかから起ってきた。1968年東京大学と日本大学で始まり,またたく間に全国の各大学に拡大した学生反乱(大学闘争)だ。


外交史 民族解放運動の高まりと共産主義勢力の浸透に対抗しようとするアメリカの外交政策の枠内で,日本の外交が展開していく。

5 対米協調外交の展開

(1)池田内閣の対中国政策 岸内閣が台湾政府との関係を緊密化させて共産党政権の中国を敵視する外交姿勢をとったのに対し,池田内閣はアメリカとの協調の枠内ながらも,経済界の強い要望を背景に,政経分離方針(政治関係は正常化させずに経済関係だけを復活・強化)のもとで中国との経済交流を拡大した。1962年寥承志と高碕達之助の間で準政府間貿易の覚書が締結されてLT貿易が始まった。
(2)ヴェトナム戦争と佐藤栄作内閣 ところが,1964年に成立した佐藤栄作内閣は中国敵視姿勢に戻る。ヴェトナム戦争の勃発が背景だ。
 ヴェトナム戦争は,南北分断が続いたヴェトナムで,共産党政権の北ヴェトナムの影響下にあった南ヴェトナム民族解放戦線(ベトコン)の民族解放運動に対し,フランスにかわって南ヴェトナムに軍事的・経済的支援をおこなっていたアメリカが軍事介入し,1964年北ヴェトナムへの爆撃(北爆)を開始したことにより始まった。アメリカは民族解放運動を圧殺し,共産主義勢力の拡大を抑止しようとしたのだ。
 佐藤内閣は,アメリカのアジア戦略に積極的に協力し,経済面から補完する姿勢を示し,1965年朴正煕政権の間に日韓基本条約を締結した。

日韓基本条約
国交正常化→韓国を「朝鮮にある唯一合法の政府」と確認
韓国併合に至る諸条約を「もはや」無効と規定
 →日本の朝鮮植民地支配を合法化
韓国が賠償請求権を放棄→日本の経済援助(無償援助を含む)

(3)沖縄の返還 ヴェトナム戦争でのアメリカの無差別的な爆撃は世界各地で反対運動を引き起こした。なかでも,ヴェトナムへの最大の出撃拠点の1つだった沖縄では,日本への復帰をもとめる祖国復帰運動の盛りあがりと重なって反米感情が著しく高まっていた。
 そのためアメリカは,日本への沖縄返還によって,1.沖縄住民の反米感情を払拭して基地を維持するためのコストを軽減すると同時に,2.日本の軍事的・経済的分担を増大させることをねらった。他方,佐藤首相は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り,日本の戦後は終わらない」との立場から沖縄返還には早くから意欲的だった。
 まず1967年佐藤首相とジョンソン米大統領が会談し,近い将来における沖縄返還を確認するとともに小笠原諸島返還を決定(翌68年に小笠原返還が実現)。1969年には佐藤首相とニクソン米大統領が会談し,沖縄の72年返還・安保条約の沖縄への適用などが合意された。その際,核抜き・本土並み返還が表明されたが,実際には緊急時における沖縄への核兵器の持ち込み・貯蔵を認めることが密約され,“有事核持ち込み・本土の沖縄化”返還だった。さらに,沖縄返還は日本の領域が西太平洋地域へ拡大することを意味し,日米安保体制は日米両国が西太平洋・極東地域の防衛に共同責任をもつ体制へと変質していった。
 なお,沖縄返還をめぐる国会論議のなかで,1967年佐藤首相は核兵器を“作らず・持たず・持ちこませず”の非核三原則を国会答弁で表明,71年には国会でも決議された。

沖縄返還への過程
○沖縄県祖国復帰協議会の結成(1960年)
○佐藤首相・ジョンソン米大統領会談(1967年)
 → 琉球民政府の長官高等弁務官の権限を縮小
   琉球政府主席の公選(1968年)…屋良朝苗が当選
○佐藤・ニクソン共同声明(1969年)…1972年の沖縄返還・安保条約適用などを合意
○沖縄県での衆議院議員選挙実施(1970年)
沖縄返還協定…1971年6月調印→72年施政権返還が実現

6 東アジアの緊張緩和

 1960年代末にはすでにヴェトナム戦争でのアメリカの敗北が決定的となっていた。そのためアメリカは,国際的信用を低下させない形でのヴェトナム戦争解決をめざして対中国政策を大きく転換させた。中国・ソ連の対立を利用し,中国との関係改善によってソ連を戦争解決に協力させ,そして 大国間の緊張緩和を背景としてヴェトナムに譲歩を迫り,名誉ある撤退を実現させようというのだ(1973年パリ和平協定で完全撤退)。こうして1971年7月ニクソン米大統領の中国訪問が両国政府から同時に発表され,翌72年2月ニクソン訪中が実現した。
 米中和解に佐藤内閣は大きな衝撃を受けたが,1972年7月かわって田中角栄内閣が成立すると,同年田中首相が訪中し,周恩来首相との間で日中共同声明を発表,日中国交正常化を実現させた。

日中国交正常化
1.日中共同声明(1972年田中角栄内閣)
 中華人民共和国政府が中国を代表する唯一合法な政府と確認
 台湾は中国の不可分の領土の一部と確認
 中国は賠償請求を放棄
2.日中平和友好条約(1978年福田赳夫内閣)

7 大国による核管理体制の形成

 冷戦が進展するなか,米ソ両国は核兵器の均衡をめざして軍拡競争を繰り広げ,またイギリス・フランス・中国も核兵器開発に成功した。そうしたなかで大国による核兵器管理体制が形成される。まず1963年部分的核実験停止条約が英米ソにより締結され,1968年には核兵器拡散防止条約(NPT)が結ばれて米英仏ソ中以外の新たな核保有国の出現を防止した。


経済史 ヴェトナム戦争と日本・西ドイツの驚異的な経済成長は,アメリカの国際的地位を大きく低下させ,その結果,ドルの信用不安と産油国などの資源ナショナリズムの高まりを招いた。そして,変動相場制への移行と石油危機は,日本の高度経済成長を終焉させ,貿易構成や産業構造の変化を促していくことになる。

8 高度経済成長の終焉

(1)ドル危機 ニクソン訪中の発表とともに世界に衝撃を与えたのは,同じ71年8月ニクソン米大統領が金・ドル交換の停止を発表したことだ(ドル危機)。これはブレトン・ウッズ協定にもとづく戦後国際通貨体制を根幹から揺るがすものだった。当時アメリカは,ベトナム戦争の膨大な戦費支出によって財政赤字が進み,アメリカ企業の多国籍化と日本・西ドイツの経済繁栄にともなう輸入の増加により国際収支が悪化していた。そこで,ドルの信用低下を防止しようとしたのだ。
 同年12月先進10か国蔵相会議がスミソニアン博物館(ワシントン)で開かれ,1ドル=308円への円の切上げなど国際通貨体制の安定をはかるための方策が講じられた。しかし,その後もドルの信用不安はとどまらず,1973年再びドルが切下げられただけでなく,日本など主要国通貨は変動相場制に移行した。
(2)第1次石油危機 さらに,同73年10月アラブ諸国とイスラエルとの間で第4次中東戦争が勃発すると,アラブ産油国でつくるOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油価格の大幅引上げ・原油生産の削減・イスラエル支持国への輸出禁止を実施したため,第1次石油危機が発生した。その結果,石油輸入価格が高騰し,石油依存・エネルギー多消費型で成長を遂げてきた日本経済は打撃をうけた。田中角栄内閣が掲げた列島改造論にあおられた土地投機とあいまってインフレが一気に加速(狂乱物価),深刻な不況に見舞われて,1974年経済成長率が戦後はじめてマイナスを記録した。こうして日本の高度経済成長が終焉した。


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