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<解法の手がかり>
問われているのは,6世紀における仏教の受容過程。
対象時期が6世紀だけに限定され,非常に狭い。一部の渡来人による信仰,6世紀前半の百済からの仏教の公式な伝来と崇仏論争(伝承),6世紀後半の蘇我氏の覇権による仏教受容の進展という3部構成で考えればよいものの,意外と書きづらかったのではないか。
◦一部の渡来人による信仰
『扶桑略記』によれば,6世紀初めに渡来した司馬達等が僧堂を作って仏像を安置していたとされ,もともと一部の渡来人によって仏教が信仰されていた。
◦6世紀前半(もしくは半ば)=仏教の公式な伝来
百済の聖明王から欽明天皇に対し,仏像などが伝えられたのが政府に公式に伝えられた最初である。
『日本書紀』などによれば,その際,仏教の受容をめぐって中央豪族間で対立があったとされる。受容に積極的だったのが蘇我氏(蘇我稲目),古来からの神祇信仰を尊重する立場から反対したのが物部氏(物部尾輿)や中臣氏であった。この崇仏論争は漢籍の引き写しで,「廃仏(北魏・北周)→仏教の復興・隆盛(隋・唐)」という物語をなぞったものとされるものの,ヤマト政権がすぐさま積極的に受容した形跡はない。
◦6世紀後半=仏教の興隆
蘇我氏の覇権確立(大臣蘇我馬子による大連物部守屋の滅亡)によりヤマト政権による仏教の積極的な受容が始まる。蘇我馬子が飛鳥寺の建立に着手し,推古朝では三宝興隆の詔がだされる。この結果,中央豪族による寺院(氏寺)建立が広がって仏教が浸透し始め,古来からの神祇信仰との共存が進んだ。
<解答例>
仏教は当初,一部の渡来人のあいだで信仰されていたが,ヤマト政権のもとに公式に伝えられたのは6世紀前半,百済の聖明王が欽明天皇に仏像・経論などを伝えたのが最初であった。『日本書紀』によれば,受容に積極的な蘇我氏と神祇信仰を尊重して反対する物部氏・中臣氏とのあいだで対立があったとされる。6世紀後半,蘇我馬子が対立する物部守屋を滅ぼして以降,朝廷が仏教興隆をはかった結果,蘇我馬子の飛鳥寺など,中央豪族による寺院の建立が進み,古来からの神祇信仰との併存が進んだ。(226字)