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年度 2014年

設問番号 第2問


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【解答例】
1川上音二郎。
2文明開化が進み,武士の服装が江戸時代以来の伝統的なものから洋装へと変化した。
3江戸幕府が欧米諸国と結んだ安政の五カ国条約は,欧米諸国に領事裁判権を認めるなど不平等な内容をもっていた。明治政府はそうした不平等条約の改正をめざし,1880年代には井上馨を責任者として交渉が進められた。井上は改正の重点を領事裁判権の撤廃におき,欧米にならった法典を編纂すること,外国人を被告とする裁判では外国人判事を採用すること,日本国内を外国人に開放することを条件とし,列国の代表をあつめて一括交渉を行った。そして,この交渉を有利に進めるため,欧米の外交官を接待するための社交場として鹿鳴館を建設し,舞踏会や夜会を頻繁に開く欧化政策をとった。
4壮士芝居は自由民権運動の高まりを背景とし,民権思想を広める手段として登場した。日清戦争などの時事や小説を題材とする庶民演劇へ発展し,歌舞伎に対して新派劇と呼ばれた。
(総計400字)


【解法の手がかり】

問1
問われているのは,「オッペケペ一節」を歌って大流行させた人物の氏名。川上音二郎。

問2
問われているのは,下線部⒜がどのようなことを象徴的に表現しているか。
下線部⒜は「堅い上下角とれて」のみに引かれている。「上下角」の意味が果たして分かるだろうか?分からない可能性が高いが,そのときは,続いて「マンテルズボンに人力車 いきな束髪ボンネット」と出てくることにも注目し,そこから類推しよう。つまり,文明開化を服装に即して表わしたものであることが判断できればよい。
ちなみに,「上下」は「かみしも」と読み,江戸時代における武士の礼服,上下一揃いの衣服の総称。「マンテルズボン」とは,マンテルという上着とズボンという,幕末・維新期に採用されていたフランス式の軍服の様式,「束髪」とは,従来の日本髪に対して作られた,新しい女性の髪形,「ボンネット」とは帽子。

問3
問われているのは,下線部⒝が直接的な批判をこめている「当時のある政策」が,何を目的とした,どのような政策か。
ビゴーの風刺画(鏡の前で着飾った日本人男女の絵)を思い浮かべれば,「貴女に紳士のいでたちで うわべの飾りはよいけれど」がその風刺画と同じ事態に対する批判であると判断できるだろう。1880年代に展開した井上外交(鹿鳴館外交)への批判である。井上外交は2011年に既出。
○時期=1880年代
問題のなかには「当時」がいつなのかが明示されていないので,答案のなかに盛り込んでおきたい。
○井上外交の目的
まず大ざっぱに説明すれば,条約改正の実現が目的であった。問2,問4に字数を割くことができそうにないのなら,ここに字数をかけておきたい。そのためには,なぜ条約改正が必要とされたのか,から書き始めればよい。
・1850年代末に欧米諸国との間で安政の五カ国条約を締結。
・欧米諸国に対して領事裁判権を承認する,関税が条約付属の貿易章程で定められ,日本が関税自主権を持たない,など不平等な内容をもつ条約であった。
・明治政府は1870年代初めに岩倉遣外使節を派遣して以降,不平等な規定の改正をもとめて欧米諸国と交渉を進めてきた。
・1880年代になって条約改正交渉の責任者となった井上馨=改正の重点を領事裁判権の撤廃においた。これが井上外交の個別的な目的。
○井上外交の政策
領事裁判権の撤廃などを実現させるためにどのような政策をとったのか。
第一に交換条件。欧米諸国にならった法典を編纂すること,外国人を被告とする裁判では外国人判事を採用すること,日本国内を外国人に開放すること(内地雑居)。
第二に交渉の方法。それ以前は国ごとに交渉していたが,井上は列国の代表を集めて一括交渉を行った。
第三に交渉を有利に進めるためにとった方策。欧米の外交官を接待するための社交場として鹿鳴館を建設し,舞踏会などのパーティを頻繁に開くという欧化政策をとった。この三点めが下線部⒝が批判している直接的な対象である。ここだけを「政策の内容」と理解すれば,先に第一,第二であげた事項も「政策の目的」と位置づく。

問4
問われているのは,「壮士芝居」=「こうした」演劇が登場してくる①政治的な背景と意味,②演劇史上における意味。
まず,①政治的な背景と意味について。
「壮士芝居」という言葉を知らずとも,オッペケペー節の冒頭に「権利幸福きらいな人に 自由湯をば飲ましたい」とあることや,問3で井上外交(鹿鳴館外交)への直接的な批判が取り上げられたことを手がかりとすれば,自由民権運動(より狭く考えれば三大事件建白運動)が関連しそうなことは想像がつく。
つまり,壮士芝居は自由民権運動のなかで民権思想を広めるための手段の一つとして登場してきた。
なお,自由民権運動を新聞・雑誌,演説会,政社,いいかえれば,言論・集会・結社の3つの手段を使った政治運動と捉えておけば,壮士芝居が演劇という形をとった演説会とも理解できることがわかるだろう。
次に,②演劇史上における意味。
1880年代から1900年ころの時期,演劇といえばまずもって歌舞伎。ちょうど歌舞伎座という近代的な劇場が設けられ,団菊左時代とも称される明治歌舞伎の黄金時代が訪れるころ。
それに対して,壮士芝居は新派(新派劇)につながり,日清戦争などの時事,通俗小説を題材とする庶民演劇として人気を博した。