年度 2025年
設問番号 第3問
【解答例】
1オーストリア=ハンガリー帝国。
2日本は日露戦争の勝利をうけ,欧米諸国から承認を得たうえで第二次日韓協約を韓国に強要し,外交権を接収して保護国とした。それに対して韓国皇帝がハーグ密使事件で列国に独立維持を訴えると,皇帝を交替させたうえで第三次日韓協約を結ばせ,内政権を接収するとともに韓国軍隊を解散させた。これにともない義兵運動が高揚すると,日本は軍隊を投入して制圧する一方,伊藤博文暗殺事件を利用して韓国を併合し植民地とした。韓国併合は,日韓両国が対等に合一することや同一の君主を仰ぐ連合国家となることではなく,韓国を完全に廃滅させて日本の領土に編入する政策であった。委任統治は国際連盟が指定する国に地域の統治を委任する方式で,民族自決の国際世論が高まるなか,それに対応するため導入された。韓国併合とは異なり領土編入の形をとらなかったが,実態としては植民地として支配しており実質的に共通していた。
(総計399字)
【解法の手がかり】
日本史・世界史共通問題であり,歴史総合の出題と言える。問1はともかく,問2は日本史の知識で十分に解答できる。
問1
「墺匈国」という同君連合の帝国の名称を問うもの。オーストリア=ハンガリー帝国であるが,日本史受験生には難問である。
問2
設問の要求が4つある。
1つめは,1905年以降の朝鮮植民地化過程。条件として,朝鮮側の抵抗に言及することが求められている。
2つめは,韓国併合の性格。条件として,史料の内容をふまえることが求められている。
3つめは,第一次世界大戦後に登場した委任統治とは何か。条件として,韓国併合と比較することが求められている。
4つめは,委任統治という新たな統治方式がとられた背景。
1つめについて。
過程つまり推移・変化が問われている。始点が1905年,終点が韓国併合(1910年)と短い期間なので,時系列に沿って説明できれば十分である。日本史選択者なら,ここだけで300字くらいは書けるだろう。
◎日本が韓国を保護国とする
・日露戦争の勝利をうけて米英露から承認をうける
・第二次日韓協約を韓国に強要して外交権を接収,保護国とする
(・漢城に(韓国)統監府をおいて内政干渉)
◎韓国皇帝による抵抗
・ハーグ密使事件
・欧米諸国に対して独立維持を訴えることを試みる
◎日本が韓国の内政権も掌握
・韓国皇帝を交替(高宗を引退させて子を即位させる)
・第三次日韓協約で内政権を接収,韓国軍隊を解散させる
◎韓国側の抵抗
・韓国軍兵士らが義兵運動に参加
◎日本による韓国併合
・抗日運動を徹底的に制圧することを意図
・安重根による伊藤博文暗殺をきっかけとする
2つめについて。
史料の内容をふまえることが求められているので,史料のなかで韓国を日本の領土に編入することがどのように論じられているのかを確認したい。
史料では,倉知鉄吉が韓国併合という表現を考案した事情が説明されている。
まず「民間」での議論として,次の2つが紹介されている。
・日韓両国対等にて合一する
・墺匈国の如き種類の国家を作る
問1の設問文から,同君連合(2つの国家が同一の君主を仰ぐ)の国家を作ることだと判断できる
それに対して倉知鉄吉は「併合の思想未だ十分明確ならず」と指摘している。つまり,「韓国併合」の語で表現される政治状況を説明できていない,というわけである。そのうえで,「併合」という表現を考案した意図を説明している。
・韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となる意を明らかにする
・語調の余りに過激ならざる文字を選ぶ
ここから,韓国併合の性格を考えたい。
その際,性格は特徴と類似する表現で,他と対比して「固有」の内容を考えればよいことを念頭におきたい。そうすれば,「対等での合一」や「同君連合の形成」と異なる点を指摘することで性格を説明することができるとわかるだろう。
史料の表現に即せば,韓国を全く廃滅させて日本の領土の一部とすること,これが韓国併合の性格である。
3つめについて。
ベルサイユ条約で日本が旧ドイツ領の赤道以北の南洋諸島の委任統治権を獲得したことを念頭に考えたい。
ベルサイユ条約が第一次世界大戦をめぐるドイツと連合国との講和条約であることである。そして,日清戦争や日露戦争の講和条約を思い浮かべ,講和条約には敗戦国が戦勝国に対して領土を割譲する規定があることを意識したい。
そうすれば,赤道以北の南洋諸島は旧ドイツ領なので,これは領土の割譲・分割に類する事態であることに気づくだろう。
このように考えてくれば,何を説明すればよいかが見えてくる。
委任統治とは地域の統治を委任されることだが,領土の割譲に類似し,それに代わる規定である。
ちなみに,誰から統治を委任されるかと言えば,国際連盟からである。
4つめについて。
先ほどの考察で何を書けばよいのか,方向性は見えている。
ベルサイユ条約では領土の割譲という形をとらずに戦勝国がドイツの旧植民地などを獲得した事情を考えればよい。
その際,思い浮かべたいのはパリ講和会議で基礎とされた14カ条の平和原則である。日本史選択者であれば、14カ条の平和原則の内容として民族自決,国際的な平和機関の設立くらいしか覚えていないことが多いのではないか。しかし,それで十分である。民族自決の国際世論の高まりが説明できればよい。
ところで、アメリカ大統領ウィルソンが14カ条の平和原則を発表したのは,それに先立って,ロシア革命によって成立したソヴィエト政権が「平和に関する布告」を発表していたからである。ソヴィエト政権はそこで第一次世界大戦のすべての交戦国に対し,即時停戦と無併合・無賠償・民族自決の原則による和平をよびかけていた。ウィルソン大統領はその影響をうけ,それに対抗するという意図から14カ条の平和原則を発表した。
こうした事情から,14カ条の平和原則のなかには民族自決とともに植民地問題の公正な調整(「関係住民(=属領・植民地住民)の利害が、両国の正当な請求と同等の重要性を有する」)という内容が入っていた。イギリスやフランスなどの領土獲得要求をふまえつつも,その抑制を意図した内容である。
つまり,民族自決の国際世論が高まるなか、イギリスやフランスなどの領土獲得要求をふまえつつ領土の分割・編入という形をとらない領土分割の措置が国際連盟による委任統治方式であった。
なお,14カ条の平和原則では,オーストリア=ハンガリー帝国統治下の民族自決,バルカン諸国の独立保障,オスマン帝国支配下の民族の自治の保障が列挙されている。