年度 1989年
設問番号 第2問
幕末政治史についてのべた次の文章を読み、下記の問いに答えよ。(400字以内)
18世紀末から19世紀初頭にかけて欧米列強の船がしばしば来航するようになり、対外問題は急速に緊迫の度を強めた。1808(文化5)年にはフェートン号事件がおこって幕府を狼狽させたが、(ア)その後の幕府の対外政策は、情勢に左右されて、強硬になったり柔軟になったりした。
1853(嘉永6)年にペリーが来航すると、老中阿部正弘は、朝廷に報告するとともに諸大名・幕臣に意見を求める方針をとったが、これを機に朝廷の権威か高まり、さまざまの政治勢力が登場して、幕末の政治的激動がはじまった。将軍継嗣問題はその最初の事例で、(イ)2つの勢力が争い、井伊直弼が登場して強硬な措置をとった。
井伊直弼が暗殺されたあと、幕府は朝廷との融和政策をとったが、やがて尊王攘夷派が朝廷を動かすようになり、1863(文久3)年には、幕府はやむをえず期日を定めて攘夷の決行を各藩に命じた。しかし、(ウ)定められた期日に攘夷を行ったのはかぎられた藩だけで、尊王攘夷派は同年8月18日の政変で京都から一掃された。
他方幕府は、2回にわたって長州藩征討の兵をおこしたが、第2次の長州藩征討は、薩摩藩など有力な藩の支持をえられなかったことのほか、(エ)民衆運動の激化にも影響されて、中止せざるをえず、これを境に幕府の政治的権威は急速に失われた。
(1) 文政・天保期(1818〜1844)の幕府の対外方針を示す法令を2つあげて、下線(ア)を説明せよ。
(2) 下線(イ)の「2つの勢力」について説明し、それとの関連で井伊直弼がどのような方針をとったかをのベよ。
(3) 下線(ウ)の「攘夷」と、それを直接の原因として生じた事件について説明し、これらの事実が対外観に与えた影響にも言及せよ。
(4) 第2次の長州藩征討が行われた年は、民衆運動がもっとも激化した年にあたる。その原因にも言及しながら、下線(エ)の「民衆運動」を具体的に説明せよ。