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年度 2010年

設問番号 第4問

テーマ 鹿鳴館時代と国民意識の発揚/近代


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問われているのは,「このような」反発の内容と背景。条件として,年表を参考にすることが求められている。

まず,「このような」の指示対象を確認しよう。
問題文では,
○明治政府が法律・美術・社交・生活習慣といった幅広い分野での欧化を促進(条約改正交渉を担当した井上馨を中心として)

○1887年頃には政治と文化の両面で,欧化主義への反発があらわれた
と書かれている。
つまり,「このような」反発とは,端的には欧化主義への反発である。そして,欧化主義とは,明治政府が促進した「法律・美術・社交・生活習慣といった幅広い分野での」欧化のあり方を指している。

では,明治政府が促進した「法律・美術・社交・生活習慣といった幅広い分野での」欧化が,なぜ反発をうけたのか,その理由を考えよう。その際,「条約改正交渉を担当した井上馨を中心として」と書かれている点をヒントとしよう。
井上馨の条約改正交渉がしばしば「極端な欧化主義」「性急な欧化主義」と評される点は知っているはずである。では,どのような点が「極端」,「性急」なのか。
たとえば,山川『新日本史』では「鹿鳴館での舞踏会や,演劇・文学・生活習慣などの改良運動をさしていわれた」(p.276)と説明してある。また,井上が極秘に進めていた条約改正の条件として,欧米同様の法典を編纂すること(さらに事前に欧米諸国に通知・承認をうける),外国人を被告とする裁判に外国人判事を任用することなどを認めていたことが,法律顧問ボアソナードら政府内部でも国家主権の侵害であるとの批判をうけていたこと,を知っているだろう。
ここから,明治政府が進める欧化が,皮相な(表面だけの),欧米に迎合的な欧化主義であったこと,欧化を急ぐことがかえって国権の毀損につながる事態を招いていたことが,反発をうける背景だった,と考えることができる。

次に,こうした「極端な欧化主義」「性急な欧化主義」に対する反発の内容に移ろう。
この問題では,反発の具体的事例として,徳富蘇峰ら民友社,東京美術学校の設立,三大事件建白運動,三宅雪嶺・志賀重昂ら政教社の4つが挙げられている。他にも考えられるかもしれないが,出題者が提示している,この4つの事例に即して考えていこう。以下,それぞれについて教科書でどのように説明されているか,参考までに列挙しておく。
(ア)徳富蘇峰ら民友社
 「政府が条約改正のためにおこなった欧化政策を貴族的欧化主義として批判して,一般国民の生活の向上と自由を拡大するための平民的欧化主義の必要を説いた」(『詳説日本史』)
 「政府の欧化政策を批判するとともに,民衆の立場から近代化を達成するべきとの平民的欧化主義(平民主義)を唱えた」(『新日本史』)
(イ)東京美術学校の設立
 「アメリカ人フェノロサや岡倉天心の影響のもとに,伝統美術育成の態度に転じて工部美術学校を閉鎖し,1887(明治20)年には西洋美術を除外した東京美術学校を設立した」(『詳説日本史』)
 「アメリカ人フェノロサや岡倉天心は,日本美術の再評価を政府に働きかけ,1887(明治20)年に政府は西洋美術を除外して東京美術学校を設立した」(『新日本史』)
(ウ)三大事件建白運動
 「地租の軽減,言論集会の自由,外交失策の回復(対等条約の締結)の3要求」(『詳説日本史』)
 「旧民権派が外交失策の挽回(対等条約の締結)・地租軽減・言論集会の自由の三大事件建白運動を起こして政府批判を強めた」(『新日本史』)
(エ)三宅雪嶺・志賀重昂ら政教社
 「一般国民の幸福を重視しながらも,その前提として国家の独立や国民性を重視した」(『詳説日本史』)
 「日本の伝統文化を尊重して独立を維持しようとする」(『新日本史』)

全体としての共通点を把握するのが難しければ,問題文に「欧化主義への反発が方向の違いをふくみながらあらわれた」と書かれている点に注目し,「方向の違い」に即して,たとえば,次のようにグルーピングして説明していけばよい。
 (ア)と(ウ):一般国民の自由に重点
 (イ)と(エ):伝統や国民性に重点
これを,「民権と国権」という観点で説明するのもよい。
もっとも,(ア)・(ウ)も,たとえば三大事件のなかに「外交失策の挽回(対等条約の締結)」が含まれるように,国権の確立を無視したものではなかったし,(イ)・(エ)も西洋的なものを徹底して排除しようとしたものではなく,国民の立場を意識したものであったことには注意しておきたい。つまり,4つの事例には,ナショナリズムあるいは国民意識の発揚,という共通点を読みとることができる。

ところで,こうしたナショナリズム,国民意識が高まった背景は何か。
条約改正交渉の失敗や1880年代初頭以来の朝鮮問題(壬午軍乱や甲申事変など)といった国際情勢もさることながら,自由民権運動がいわば国民形成の政治運動として展開し(政府に対して「国民としての権利」を要求するとともに民衆に対して「国民としての自覚」を喚起),それに対応する形で,藩閥主導の立憲体制の形成が進む,という国内政治情勢に注目しておきたい。天皇を中心とする国家のあり方を前提としながらも,「臣民」ではなく「国民」を形成しようとする動きが広がるなかで国民意識の発揚がはかられていったのである。


(解答例)
当時の欧化が藩閥主導の表面的な西洋模倣であったため,国民主導の近代化をめざす潮流が広まった。一方で,民友社が掲げた平民主義や民権派による三大事件建白運動のように,一般国民の立場から自由の拡大と国家主権の確保をめざす動きが広まり,他方では,政教社が掲げた国粋主義や岡倉天心らの新日本画運動のように,西洋の直輸入を排し,新たな伝統を創出しようとする潮流が登場した。(180字)