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年度 2014年

設問番号 第2問

テーマ 室町時代の武士と文化/古代


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問われているのは,応仁の乱を契機として中央の文化が地方に伝播するなかで武士が果たした役割。条件として,乱の前後における武士と都市との関わりの変化に留意することが求められている。

最初に「武士と都市との関わり」が応仁の乱前後で変化していると表現されている点に注目したい。
ここから「武士」とは具体的にどのような武士を指し,「都市」とは具体的に何かを確定していこう。
まず「都市」である。
資料文では⑴⑵⑶に京都,⑷に越前一乗谷,越後府中,周防山口が取り上げられている。一乗谷は朝倉氏の城下町,山口は大内氏の城下町として有名なので,後者の3つの「都市」はそれぞれの大名の城下町と判断してよい。つまり,応仁の乱を前後に<京都→各地の城下町>という変化が表現されていることが分かる。
続いて「武士」である。「関わり」のある都市が応仁の乱以前にあっては「京都」しか取り上げられていないことを考えると,この「武士」が武士一般を指す言葉とは想定されていないことが分かる。では,「京都」に関わりのある武士とはどのような人々か。
資料文⑴
○応仁の乱以前…守護は原則として京都在住,なかには守護代も在京するケースあり
資料文⑵
○「ある武士」
資料文⑶
○「山名氏の家臣など3人の武士」
これらを総合すれば,応仁の乱以前において京都に関わるのある武士とは守護,守護代,守護の家臣であることが分かる。(資料文⑵の「ある武士」がどのような存在なのかは不明なので〔朝倉教景か?〕,ここでは判断材料としては除外しておく)
では,なぜ彼らが京都に在住していたのか。
そもそも守護職を務める大名の多くは,南北朝の動乱のなかでも軍事行動の必要から任国に赴く以外は京都に滞在することが多く,14世紀後半に室町幕府の支配が安定すると,東国・吸収を除いて,京都に在住することが一般化していた(2011年第2問も参照のこと)。管領や侍所所司に就任するだけでなく,そうした役職を問わず幕府政治に参画していたのである。当然のことながら,大名は多くの家臣(被官)を引きつれて在京しており,複数国の守護を兼ねる有力大名の場合,守護代を務める有力家臣(被官)も在京して大名家の運営に関わり,ときには幕府政治にも関与した。つまり,守護や守護代を務める有力武士は総じて京都に居住する都市領主であった。
このように大名ら有力武士が家臣をともなって京都に在住するというあり方は,応仁の乱によって変化する。このことを示しているのが,資料文⑴である。
資料文⑴
○「乱後には,ほぼ恒常的に在京した守護は細川氏だけであった」
多くの大名たちは戦乱の広がりに伴って自らの守護任国に下向し,次第に在国が恒常化していく。

次に,大名らと文化とのつながりについて確認していこう。
応仁の乱以前について。
資料文⑵
ある武士…○五山の禅僧や中下級の公家と日常的に交流
     ○立花の名手を庇護
資料文⑶
3人の武士…○連歌の名手のなかに数えられる
これらから,京都在住の武士が文化の担い手,受容者であったことが分かる。
当時,京都では大陸伝来の禅宗文化と伝統的な公家文化の融合が進み,身分を超えた寄合の文芸が盛んであった。大名ら京都に在住する武士たちは,禅僧,公家などを交えて催される連歌・喫茶などの寄合に参加するという風雅な生活を送るのがあたり前であった。
ところで,資料文⑵の「ある武士」(役職を明記していない点から守護ではないと推測)が「中下級」の公家と日常的に交流している点から,公武両身分を超えて新たな家格秩序が形成されていた(されつつあった)ことが想像できる。つまり,寄合の文芸は既存の身分を超えたものであるとともに,同じ階層の人々の共同性を確認するものでもあった。(そもそも,「わび」,枯淡を良しとする美意識は自分たちを一般人と区別しようとする意識の表われと言える。)

ところが応仁の乱後,大名らは戦乱の広がりとともに守護任国へ下向し,次第に在国が常態化していく。
そうしたなかで大名らは,かつて馴染んでいた京都の文化を地方へ積極的に取り入れていく。それは単なるあこがれではない。京都の文化は,もともと彼らの家格,階層性を示すものとして生活の一部であった。京都での文化的生活を城下町へそのまま移そうとしたのである。こうして連歌など寄合の文芸が各地で盛んに営まれるようになるなか,宗祇のような連歌師が各地の都市を訪れ(資料文⑷),文化の広がりを支えた。

なお,京都(中央)の文化が地方へ伝播した要因の一つは公家や禅僧らが荒廃した京都から地方へ逃れたことにあるが,この問題では武士の役割を説明することが求められているのだから,その点に言及するとしても,各地の大名らが彼らを受け入れた点に焦点をあてて表現したい。


(解答例)
応仁の乱以前,守護を務める大名は守護代や多くの家臣とともに在京していた。京都では禅宗文化と公家文化の融合が進み,身分を超えた寄合の文芸が発達しており,大名らも担い手であった。応仁の乱以後,大名らは戦乱の拡大に伴って任国に下り,在国が恒常化するなかで城下町に京都の生活文化を移植し,文化人を招き入れた。(150字)


【添削例】

≪最初の答案≫

乱以前に在京していた守護や守護代と家臣らは禅僧や公家と交流し禅宗文化や公家文化を受容し,次第に文化の担い手となった。乱後は京都が戦乱で荒廃したので武士は領国へ下り,戦乱を逃れて地方に散った文化人を城下町に招き入れ保護した。これによって中央の文化の地方普及を促すことになった。

乱以前についてはOKです。

それに対して乱以後についてです。
まず,守護らが京都を離れた理由が不適切です。「戦乱で荒廃した」から京都を離れたわけではありません。そもそも戦乱を起こしたのは守護らではありませんか。
それはともかく,守護らが京都を離れて任国に下ったのは,地方に戦乱が広がっていたからです。戦乱に対処するため守護の多くが任国に下り,地域支配の実権をめぐって守護や守護代,国人らが抗争しあう状態になります。

次に,「戦乱を逃れて地方に散った文化人を……招き入れ」とありますが,これでは守護ら武士の主体性がうかがえません。そもそも守護ら武士たちは,京都に在住していた頃には文化の担い手だったのですよね。それならば,任国に下った後も文化の担い手として動くのではありませんか。
さらに資料文⑷に取り上げられている宗祇は各地の守護のもとを歴訪しており,「戦乱を逃れて地方に散った」という性格のものではありません。
視点を変えて考えてみたいところです。

≪書き直し≫

乱以前に在京していた守護や守護代と家臣らは禅僧や公家と交流し禅宗文化や公家文化を受容し,次第に文化の担い手となった。乱後は戦乱が地方に拡大し武士は領国へ下り在国するようになった。武士は自ら京都の文化を地方へ広めるとともに,地方へ避難した文化人や各地を訪れた連歌師を城下町へ招き入れ,保護した。

「武士は領国へ下り」とありますが,守護領国制という概念を認めたとしても「領国へ下」るのは守護にしか該当しません。
(最近は守護による任国支配を「守護領国制」という概念で説明することが少なくなっています)
さらに,乱以前では「守護や守護代と家臣ら」と表現しているのに,乱後で「武士」と表現していては整合性がとれません。少なくとも「彼ら」と受けるのが適当です。

「武士は自ら京都の文化を地方へ広める」とありますが,「地方」一般に広めたのではなく城下町に移したのではありませんか?

「京都の文化を地方へ広める」ことと「地方へ避難した文化人や各地を訪れた連歌師を城下町へ招き入れ,保護」することとが,「とともに」という接続表現で結ばれていますが,両者の間に関連はありませんか。
並列で表現することが不適切だというわけではないのですが,「とともに」で接続すると,両者の関連が全くないものと考えているように読めます。
両者の関連をどう考えましたか?

≪書き直し2回目≫

乱以前に在京していた守護や守護代と家臣らは禅僧や公家と交流し禅宗文化や公家文化を受容し,次第に文化の担い手となった。乱後は戦乱が地方へ拡大し守護は任国へ下り在国するようになった。彼らは京都の文化を城下町に移し,地方へ避難した文化人や各地を訪れた連歌師を招き入れ保護することで文化の発展を目指した。

> 「守護、守護代、家臣らが京都の文化を地方へ広める」ことと「文化人を招き、保護した」ことの関連は、後者によって、前者で伝わった文化の発展が図られた、と考えました。

OKです。