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年度 2018年

設問番号 第2問

テーマ 室町幕府の財政と徳政令/中世


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問われているのは,室町幕府の財政の特徴。条件として,幕府の所在地との関係に注目することが求められている。

まず,室町幕府の財政基盤について確認したい。
幕府の直轄地である御料所も財政基盤とされたが,各地に散在し,また一時的に設定されたものの多く,財政全体においては重要な役割をもっていなかった。
一方,流通経済に注目した課税が細かく行われた。京都内外で高利貸を営む土倉・酒屋に対して営業税として土倉役(倉役)・酒屋役を課し,金融活動に従事していた京都五山の禅宗寺院にも課税した。交通の要地に設けた関所では関銭,港湾では廻船の出入りにともなって津料といった通行料を徴収した。日明勘合貿易の利益も大きく,勘合船に同乗した商人から抽分銭を収めさせた。
また,守護の分担金,地頭・御家人に対する賦課金も財源であり,諸国からは段銭・棟別銭を徴収し,国家的な行事の経費に充てていた。
これらのうち,どの内容が室町幕府の特徴なのかは,たとえば鎌倉幕府の財政基盤と対比すれば判断できる。
鎌倉幕府は荘園(関東御領)や知行国(関東知行国)を多数もち,それらからの年貢・公事が主な財政基盤であり,あとは,関東御公事と呼ばれる御家人に課された経済的な負担もあった。
このことと対比すれば,流通経済に注目した課税が多く,それらが主要な財政基盤となっていたことが,室町幕府の特色であることが分かる。
そして,条件としてあげられている「所在地との関係」に注目するならば,室町幕府の置かれた京都は全国的な流通経済の中心であり商工業が発達しており,流通経済に即した課税に焦点をあてて考えてよいことがわかる。

ここで資料文を見てみよう。資料文⑵に室町幕府の財政(年中行事に関する支出)についての情報が記されている。
資料文⑵
 14世紀末から土倉役・酒屋役(土倉・酒屋からの営業税)が恒常的に課税されるようになった
 土倉役・酒屋役の課税基準:質物や酒壷の数量
 土倉役・酒屋役=幕府の年中行事費用をまかなう
「年間6000貫文」が幕府の年中行事費用のうちどれくらいの割合を占めるのかは不明だが,多くを占めるのだろうと判断してよい。つまり,土倉役・酒屋役が室町幕府の重要な財政基盤だったと考えてよい。
ところで,資料文⑴にも土倉に関する情報が記されているが,これはどのような関連があるのか?
資料文⑴
 室町幕府が土倉の荒廃を問題視している
 土倉の再興が急務であると謳っている
ここで想起したいのは,土倉など商工業者が寺社や官衙に所属して神人や供御人の身分を獲得し,寺社・官衙から個別に保護・特権を受けながら経済活動を行っていたことである。具体的には,京都内外で高利貸を営む土倉の多くは延暦寺の保護下にあったこと(日吉神社の神人の身分をもつなど)である。
このことを念頭においたうえで資料文⑴と資料文⑵を総合して判断すれば,室町幕府は成立期から土倉の再興をはかりつつ,14世紀末,南北朝の動乱が収まる頃になって京都内外の土倉・酒屋を一律に幕府の統制下におき,土倉・酒屋から恒常的に営業税を賦課・徴収する体制を整えた,という歴史的経緯を思い浮かべることができる。

ところで,ここまでは財政基盤,つまり収入面に関する考察である。では,支出面ではどうか?
支出に関する情報は資料文⑵・⑸に記されている。
資料文⑵…幕府の年中行事費用
資料文⑸…賀茂祭の費用
このうち,賀茂祭は葵祭とも呼ばれ,平安時代中期に整った朝廷の年中行事の一つである。
このことを念頭におけば,室町幕府は幕府そのものの支出だけでなく,古くは朝廷が行っていた行事の費用もまかなっていたことがわかる。高校日本史の知識からすれば,これも室町幕府の特徴と言えそうだ。しかし実際は,鎌倉時代から幕府は朝廷のさまざまな行事に対して支援や献金(関東御訪などと呼ばれる)を行い,その費用をまかなっていた。したがって,支出面については必ずしも室町幕府の特徴と呼ばれる内容はなく,この面について書く必要はない。


問われているのは,①徳政令の発布が室町幕府に深刻な財政難をもたらしたのはなぜか。②それを打開するために,幕府がどのような方策をとったか。

まず,徳政令とは何か。
徳政令は,一般的には,債務の破棄を認める法令であり,室町時代においては徳政を求める土一揆(徳政一揆)の発生に際して幕府などによって発せられた。室町幕府が最初に徳政令を発布したのは1441年,嘉吉の土一揆に際してであった。
資料文⑶では,嘉吉の土一揆が幕府に対して徳政令の発布を求めたことが説明されているが,その際に注目したいのは「それに加え,室町幕府に対して徳政令の発布も求めた」と書かれている点である。土一揆は,幕府への徳政令発布の要求以外に何を行っていたのか。それは,「土倉に預けた質物を奪い返したり,借用証書を焼くなどの実力行使」,つまり実力による徳政の実施(私徳政)である。
ここから,土一揆は実力によって徳政を実施するとともに,その行為の正当性を裏づける(由緒を確保する)ため,幕府に対して徳政令の発布を求めたことが分かる。
したがって,幕府が徳政令を発布すれば土倉・酒屋は債権を失う。土一揆の実力による徳政(私徳政)が追認され,土倉は質物を失い,酒屋は酒壺を破却される。つまり,幕府が土倉役・酒屋役を賦課する際の課税対象(資料文⑵)が減少し,その結果,土倉役・酒屋役は減収となる。そして,設問Aで確認したように,幕府は土倉役・酒屋役を重要な財源としていたのだから,これにともなって(資料文⑷にあるように)深刻な財政難をもたらすのは当然のことである。
これが徳政令の発布が幕府に深刻な財政難をもたらした背景である。

次に,徳政令発布にともなう財政難を打開するために幕府がとった方策についてである。
資料文⑸には,
「去年(1454年)冬徳政十分の一,諸人進上分」が財源として使われている
ことが説明されている。
この「徳政十分の一」とは,徳政令発布に際して債務額・債権額の10分の1もしくは5分の1の手数料を納入させたもので分一銭と呼ばれ,幕府は分一銭の納入を条件として債務の破棄または債権の保護を認めた。端的に表現すれば,徳政令発布に際して手数料を納入させ,手数料を納めた側に権利を認める方式である。そして,この分一銭が財源の一つとして利用されていることが指摘されており,これが,徳政令発布にともなう財政難を打開する方策であったと判断できる。
なお,分一銭の納入を条件として債務の破棄を認める徳政令,つまり分一徳政令が発せられたのは,資料文⑸にある1454年が最初である。


(解答例)
A商工業の発達する京都に所在したため,高利貸を営む土倉を保護して営業税を課すなど,流通経済への課税を主な財政基盤とした。(60字)
(別解)A商工業の発達する京都に所在したため,高利貸を営む土倉・酒屋からの営業税など,流通経済への課税が財政基盤の中心であった。(60字)
B徳政令は土一揆の実力行使を追認したため土倉・酒屋は打撃を受けた。質物など課税対象の減少から幕府は財政難に陥り,そこで徳政令発布に際して手数料として分一銭を徴収し,収入を確保した。(90字)
(別解)B徳政令により土倉・酒屋は債権を失い経営に打撃を受けたため,幕府は収入減に陥った。そこで,徳政令発布に際して手数料を納入させて手数料を納めた側に権利を認め,収入の確保をはかった。(89字)


【添削例】

≪最初の答案≫

A商工業が発達した京都の高利借である土倉や酒屋に土倉役・酒屋役を恒常的に課して,財政収入の多くを依存した。

B徳政令の発布は土倉や酒屋の没落を生み土倉役・酒屋役の減少は幕府の財政難をまねいた。幕府は打開のために,徳政令を発する際に民衆の徳政の十分の一にあたる分一銭の納入を課した。

Aについて。
> 高利借
ではなく「高利貸」です。

ところで「特徴」を表現しましたか?

Bについて。
> 民衆に徳政の十分の一にあたる分一銭の納入を課した。
「民衆」という表現は不正確です。もし書くのなら「債務者・債権者」が適当です。
そもそも1454年の分一銭徴収が分一徳政令によるものか(債務者の納入)、分一徳政禁令によるものか(債権者の納入)は、高校日本史レベルでは細かなデータです。

ところで、資料文⑴と資料文⑶はを活用していませんよね?頑張って活用してみてください。

≪書き直し≫

A商工業の発達した京都に所在した幕府は、金融業を営む土倉・酒屋を保護して土倉役、酒屋役を課すなど、流通経済に依拠した。

B徳政令により土一揆による武力行使が認められ土倉・酒屋は打撃を受けた。土倉役・酒屋役の減少は幕府の財政難を招き、幕府は徳政令発布の際に徳政に関わる人々に手数料として分一銭を課した。

Aについて。
OKです。

Bについて。
基本的にOKですが、
「徳政に関わる人々に」の部分は、そんな婉曲な表現を使わず、「債務者や債権者」という直截な表現のほうが適切です。