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年度 1980年

設問番号 第3問

テーマ 江戸から明治前期にかけての大阪市場の変化/近世・近代


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設問の要求は,表に見られる,大坂(大阪)への米と綿花の年間入荷量の変化が生じた原因。

米について。
年間入荷量の変化…1714年から1840年頃まではほぼ一定しているのに,1887年になって大幅に減少している。
では,1714年〜1840年頃の共通点・1887年との相違点は何かといえば,前者が江戸時代,後者が明治期であること。米の流通に関して両者で違う点といえば,江戸時代では大名たちが石高制にもとづいて百姓から米納を原則とする形で年貢を収取し,それを大坂や江戸の蔵屋敷に回送して換金していた(江戸時代においては米は主として蔵物として流通)のに対し,明治期になると廃藩置県で大名の存在が消滅し(蔵屋敷も消滅),さらに地租改正で金納地租へと転換している。だから,江戸時代はほぼ一定量の米が入荷されていたものの,明治期になると大きく減少してしまったわけである。

綿花について。
年間入荷量の変化…1810年頃に飛躍的に増加しているにもかかわらず,それ以降は徐々に減少していく。
綿花が入荷されるということは(綿花の栽培がさかんになったということはさておき),綿花に対する需要があるということ,つまり綿花を原料とする紡績業がさかんになっていることを表している。だから,1810年頃に飛躍的に増加した背景としては,綿花栽培の活発化とともに綿業(紡績業や綿織物業)の発展を想定することができる。
ところが,1840年ころには減少している。どこに原因があるのか。
それは綿花の大坂への集荷経路と綿花の消費地(紡績業が行われているところ)の問題である。綿花は米と違って民間商人により集荷される(つまり納屋物である!)が,大坂の問屋商人らが組織していたのが株仲間。そして綿花の消費地といえば大坂とは限らない。つまり,1810年頃は株仲間を組織する大坂の問屋商人が各地から綿花を大坂へと集荷し,そのあと消費地へと出荷していたのが,1840年ころになると,そうした株仲間主導の流通ルートが機能しなくなった(株仲間の流通への統制力が低下した)というわけである。では誰が綿花を産地から消費地へと流通させたのかといえば,それが在郷(在方)商人だった。
そして1887年にはさらに減少するが,それはいわゆる開港後のこと。
幕末期には綿織物が大量に輸入されて綿業全体が大きく動揺し,さらに明治前期には輸入綿糸を原料とするかたちで綿織物業が復活する。いずれにしても綿花に対する需要が大きく減少している。これが大阪への綿花入荷量がさらに減少した背景である(もっとも1887年といえば紡績業を中心とする企業勃興の時代なので,もう少しあとの時期になると大阪への綿花入荷量は飛躍的に増加することになるはずだが)。


(解答例)

江戸時代には石高制のもと年貢は米納が原則であり,諸藩は大坂に蔵屋敷を設置して年貢米を廻送・換金していた。そのため,bの微増,cの微減という変化はあるが,大坂は米の中央市場であった。しかし明治初期,廃藩置県で蔵屋敷が撤去され,地租改正で金納地租が導入されて農民が地方市場で米を換金すると,dで激減した。
(別解)江戸時代,諸藩は石高制のもと米納年貢を経済基盤としており,大坂には多くの諸藩が年貢米換金のために蔵屋敷を設置していた。そのため,a〜cではほぼ一定量の米が入荷され続けた。しかし,廃藩置県で蔵屋敷が撤去され,地租改正で金納地租が導入されて農民が地方市場で米を換金するようになり,dでは激減した。
綿花
aごろから木綿が庶民衣料として普及して綿花栽培が広がり,大坂の問屋商人が綿花を集荷したため,bで激増したが,地方市場の成立と在郷商人の台頭,藩専売の強化により大坂の中央市場としての機能が低下し,cでは激減した。そして開港以降,綿織物・綿糸が大量に輸入されたため綿花需要が減退し,dではさらに激減した。
【添削例】

≪最初の答案≫

江戸時代は石高制の下、年貢は米納が原則であった。aでは諸藩の年貢米の換金を背景に大坂には米が集まったが、bでは商品作物栽培の増加による米の生産の停滞、cでは各地の在郷商人大阪を経由せず、米を直接消費地へ出荷したこと、dでは地租改正により納税が米納から金納に変化したことで、それぞれ停滞・減少した。

綿花
a〜bは商業経済・流通の発達に伴って農村での商品作物栽培が盛んになり、大坂の株仲間を通じて綿花を全国へ出荷したための増加である。b〜cは在郷商人・藩専売の開始より、大坂を経由しない流通が増えたための減少で、dの激減は明治の貿易開始に伴い安価な外国産綿織物の流通による国内綿花の需要減少が背景である。

米について。

冒頭の
> 江戸時代は石高制の下、年貢は米納が原則であった。
との表現は適切です。しかし、このデータがaでは活かされているものの、bやcには活かされていない(答案の表現からは活用しているのかどうかが不明)。b、cも江戸時代である以上、a同様、「年貢は米納が原則であった」ことが入荷量の大きさに影響を与えているはずであり、そのことを答案のなかに明記しておきたい。

> bでは商品作物栽培の増加による米の生産の停滞
bでは入荷量が微増しているのだが、数値を読み違えていないか?

> cでは各地の在郷商人大阪を経由せず、
> 米を直接消費地へ出荷したこと
米を廻送する主体として「各地の在郷商人」が明記されているが、彼らの扱った「米」とは“諸藩の年貢米”なのか、それとも違う性格の米なのか。
答案の冒頭に「江戸時代は石高制の下、年貢は米納が原則であった」と書き、aで「諸藩の年貢米」が大坂に入荷されていることを明示している以上、cも江戸時代なのだから、「各地の在郷商人」が“諸藩の年貢米”を扱っていると君が考えているものと判断できる(そうでないのなら、きちんと表現したい)。しかし、それは誤り。

> dでは地租改正により納税が米納から金納に変化したことで、
答案の冒頭では「江戸時代は」と表現しているのだから、cからdのあいだで明治期に入っていることを明示しておくのがよい。
さらに、「米納から金納」に変化したらなぜ大坂への米の集荷量が減少するのか。その点について説明が不足している。

綿花について。

> a〜bは商業経済・流通の発達に伴って農村での商品作物栽培が盛
> んになり、大坂の株仲間を通じて綿花を全国へ出荷したための増加
> である。
設問では「大坂への入荷量」が問われているのだから、“大坂から全国へ出荷された”点を説明するのではなく、“いったん大坂に集荷されたこと”を説明することの方が重要。

また、答案の最後のところで「国内綿花の需要減少」と書いているが、ではa〜bにおける激増に「綿花の需要」は関係していないのか。

> b〜cは在郷商人・藩専売の開始より、大坂を経由しない流通
> が増えたための減少で、
「在郷商人……の開始」との表現は不適切。また、bは「1810年頃」であり、在郷商人にせよ、藩専売制にせよ、18世紀後半から存在するので「開始」との表現は誤り。

> dの激減は明治の貿易開始に伴い安価な
> 外国産綿織物の流通による国内綿花の需要減少が背景である。
いわゆる貿易開始は江戸幕末期なので「明治の貿易開始」は誤り。
なお、dは「1887年頃」なので“綿織物”だけでなく“綿糸”についても触れておくのがよい(教科書の貿易統計を参照のこと)。

≪書き直し≫

江戸時代、石高制のもと年貢は米納で諸藩は大坂に蔵屋敷を置いて年貢米の換金を行った。このため、a〜cにおいて、多少の増減はあるものの、大量の米が中央市場としての大坂に集まった。しかし、明治期のdには、地租改正が行なわれ、納税が米納から金納になり、米の地方市場での換金が始まったため米の大坂への入荷量は減少した。

綿花
a〜bは流通の整備と庶民衣料としての綿花需要増加を背景に大坂の問屋商人が綿花を集荷・出荷したための増加である。b〜cは在郷商人・藩専売の影響で、大坂を経由しない流通が増えたための減少で、dの激減は幕末の貿易開始に伴い安価な外国産綿織物の流通による国内綿花の需要減少が背景である。

米については,OKです。

綿花について。
> 庶民衣料としての綿花需要増加
庶民衣料は「綿花」ではなく「綿織物(綿布)」ですね。

それ以外はOKです。