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年度 1983年

設問番号 第2問

テーマ 鎌倉新仏教の社会的背景/中世


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設問の要求は、なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。条件として、歴史の流れを総合的に考えることが求められている。

なお、「日本の歴史学がいまだ完全な解答をみいだしていないものであると思われる」というのだから、必ずしも“正解”があるわけではなく、設問で指示されているように「自由な立場から」答案を作成すればよい。
とはいえ、何でも書けばよいわけではない。「歴史の流れを総合的に考え」ることが求められている。
したがって、(1)「すぐれた宗教家」を具体的に思い浮かべて、彼らの主張・活動の特色や共通点を考え、(2)平安末・鎌倉時代、つまり12〜13世紀の社会状況を確認することが必要である。

まず、(2)「平安末・鎌倉という時代」から。
荘園公領制(職の体系)の成立・展開期であり、天皇家・摂関家などの有力貴族、延暦寺・興福寺などの大寺社といった権力者が、荘園・知行国を集積して家産を形成していた。
その一方で、開発領主層、農民や商人・職人といった百姓層は、荘園公領制という職の体系のなかでそれぞれ職を有して経済基盤を確保し、その安定的な確保のためにさまざまな権力者と多元的なネットワークを結んでいた。さらに荘園公領制から逸脱する動きを次第に見せていく。名主百姓たちは村落形成をすすめて荘官や荘園領主へ対抗できるだけの力量をたくわえていったし、経済流通が活発化して商人や職人の活動がさかんになり、貴族・寺社の保護から自立して広く民衆の需要に応えるようにもなっていった。たとえば、荘園年貢の保管・輸送をになう荘官の一種であった問丸は次第に独立した商品の中継・輸送業者へと成長したし、座の商工業者たちは本所との関係を経済的な関係へと変質させていった。

さらに平安末・鎌倉期は、奥州藤原氏のような半独立政権が地方に出現し、そして治承・寿永の内乱のなかから鎌倉幕府という武家政権が東国に成立、承久の乱を経て朝廷(公家政権)を圧倒してその支配権を拡大していく時代でもあった。貴族(公家)の没落、武家の台頭という時代。

次に、(1)「すぐれた宗教家」について。
法然、親鸞、一遍、日蓮、栄西、道元といった、いわゆる鎌倉新仏教の開祖がすぐに思い浮かぶと思うが、それだけでなく貞慶、高弁、叡尊、忍性といった旧仏教内部で革新運動を担った人びとも想起しよう。そのうえで、彼らの主張・活動の特色を確認しよう。
もちろん「自由な立場」から論じればよいので、「すぐれた宗教家」として鎌倉新仏教の開祖だけを想定し、そして新仏教に共通する特色だけを考えてもよい。
いずれにせよ、どういった人びとを「すぐれた宗教家」と考えたのかを答案のなかで明記しておこう。

法然…念仏を唱えることに専念(専修念仏)
親鸞…阿弥陀仏による救いを信じることを重視
一遍…信不信・浄不浄の区別なく往生が約束されていると主張
日蓮…法華経への信仰の徹底(題目を唱える)
栄西…禅による護国を主張
道元…坐禅そのものに専念(只管打坐)
貞慶や高弁…戒律の復興を主張
叡尊や忍性…戒律を民衆へ普及・非人救済など社会事業

彼らの主張・活動のなかに、何らかの共通する特色を見い出そう。
新仏教に共通する特色として易行・選択・専修がしばしば指摘されているが(栄西にはあてはまらない)、旧仏教の革新運動をすすめた貞慶らにも共通する特色としては“仏教理論のなかで最もすぐれた部分と信じられる教義や作法への純化を追求しようとする活動”と表現できる。

他方、平安末・鎌倉時代において宗教界で主流をなしていたのは顕密仏教(いわゆる旧仏教)である。
彼らは平安後期以降、荘園の集積につとめたり、各地の商工業者に特権を付与することによってを寄人・神人として編成し、経済基盤を確保していた。また、聖などの民間布教者の活動を通じて各地の武士や農民に積極的に働きかけて寺院への参詣や寄進を奨励し、宗教的な影響力を拡大していた。とはいえ、そのことをもって顕密仏教が民衆救済の宗教へと変貌したと単純に評価することはできない。そもそも、顕密仏教は荘園領主として民衆に君臨する立場にあり、さらに宗教権門として朝廷のもとでの国家支配をささえる存在であった。したがって顕密仏教は、民衆救済のための仏教として再生しつつも、荘園公領制のもとでの収奪体系を維持・安定させるために民衆を呪縛する信仰体系としても機能していたのである。

ところで、顕密仏教が荘園公領制維持のための宗教としての役割を果たすためには、顕密仏教も民衆化をすすめる必要がある。だからこそ、世俗化し堕落した顕密仏教のあり方を批判し、仏教本来のあり方への復帰をもとめる動きが高まったのだと言える。

このように民衆化を進めながら顕密仏教は、荘園公領制の収奪体系のもとに民衆を呪縛していったが、他方で、開発領主(在地領主)や農民・商人・職人などさまざまな民衆のなかには荘園公領制的支配秩序から逸脱していこうとする動きも存在した(先述)。法然・親鸞や日蓮は、彼らが選びとった1つの修行に専念することを主張しただけでなく、それ以外の修行や功徳をつむことの意義を否定していたが、そのことは、顕密仏教のもとでの宗教的呪縛に対する抵抗・自立としての意味をもっており、開発領主(在地領主)層や民衆の、荘園公領制的支配秩序から逸脱していこうとする動きに即応したものと言える(もちろん、民衆が荘園に君臨する仏神の権威を逆手にとって彼らの抵抗運動の拠り所とするケースも多い−鎮守の社や堂が惣結合の媒介となったことを想起しよう−)。また、新興の禅宗(とりわけ臨済宗)は鎌倉幕府の積極的な保護をうけ、そのもとで勢力をのばしていった。

(解答例)
平安末・鎌倉時代は荘園公領制の成立・展開期であり、顕密寺院は荘園を集積し、さらに荘園・公領の秩序維持を宗教面から担っていた。そうした役割を果たすためには顕密仏教の民衆化が不可欠であり、そのため各地で聖が布教につとめ、また貞慶や高弁のように戒律の復興を掲げ、世俗化し堕落した仏教のあり方を批判したり、叡尊や忍性のように非人救済など社会事業を通して民衆への戒律の普及につとめたりと、改革運動を進めるものが輩出した。他方、武家政権の成立・発展のなかで武士による在地支配が強まり、また農業や経済流通の発達を背景として各地で農民や商人・職人が成長していたが、法然・親鸞や日蓮のような易行・選択・専修という特色をもった新仏教は、顕密仏教の宗教的な呪縛から自立しようとする武士や民衆の期待にかなったものであった。このように時代の大きな転換期であったためにすぐれた宗教家が輩出したといえる。(387字)