年度 1983年
設問番号 第4問
テーマ ワシントン会議と日本の国際的立場/近代
“ワシントン会議開催時の日本の国際的立場”から考えていこう。その際、日露戦後(あるいは日清・日露戦争期)→第1次世界大戦期、のそれぞれの段階における日本の対外政策と諸外国との関係、さらにワシントン体制という国際秩序の特色を確認することを忘れてはならない。
日露戦後
日本外交の軸=イギリス・ロシアとの提携(第2次日英同盟・日露協約)
→植民地・権益を確保=欧米に並ぶ帝国主義国の地位を確保
↓
第1次世界大戦
日本=中国・太平洋地域での勢力圏を拡大
→アメリカとの対立・中国の反日民族運動の高揚を招く
イギリスの国際的地位の低下・ロシア革命による社会主義国の成立
ヨーロッパでの第1次世界大戦の勃発を「日本国運ノ発展ニ対スル大正新時代ノ天祐」(井上馨)と認識した日本は、この機会を利用して「東洋ニ対スル日本ノ利権ヲ確立」することをめざし、日英同盟を口実としてドイツに対して宣戦を布告した。東洋におけるドイツの拠点である中国山東省の青島、ドイツ領南洋諸島を占領するとともに、21か条の要求を中国袁世凱政権につきつけ、満蒙権益の期限延長・山東省ドイツ権益の継承などを中国に認めさせる一方、中国政府に対して単独に影響力を行使できる地位の獲得をめざした(挫折)。そして、ベルサイユ条約では山東省権益と赤道以北の南洋諸島の委任統治権を獲得した。しかし、こうした中国での日本の権益拡大への動きにはアメリカが強く反発し(石井・ランシング協定で妥協が図られたが)、また中国民衆による反日運動を引き起こし(五・四運動など)、その結果、中国政府はベルサイユ条約に調印せず、山東省権益の継承問題が日中間の懸案として残されることとなった。
他方、第1次世界大戦を通じたイギリスの国際的地位の低下は著しく、かわってアメリカがその国際的地位を大きく上昇させていた。また、大戦末期に起こったロシア革命の結果、ロシアでは社会主義国家が成立し、英米仏日がシベリア出兵をおこなって干渉したものの、社会主義国家建設への動きを押し留めることはできなかった。こうした事態は、イギリス・ロシアとの提携を軸としてきた日本外交に修正を迫るものであった。
さらに、ベルサイユ条約で国際紛争を平和的解決するための国際機関の設立が規定され、それにもとづいて1920年に国際連盟が発足していたものの、アメリカが上院の反対で参加できなかったことなどから実効性が疑わしく、またアメリカ・イギリス・日本など主要国のあいだで海軍拡張競争(建艦競争)が激化していた。
こうした国際情勢のもと、アメリカの提案によりワシントン会議が開催された。
次に史料の内容を確認しよう。
(2) アメリカとの協調を重視
(4) 太平洋・極東問題について
○「帝国にとり重要の関係ある既成事実」・「特定国間限りの問題」を進んで審議決定することに反対
○「帝国過去の施措政策のみを批判」するような状況を回避
(5) 軍縮を主眼におく
(4)について。
○「帝国にとり重要の関係ある既成事実」・「特定国間限りの問題」
→山東省権益(ベルサイユ条約で継承が規定されたものの、日中間の懸案として残されていた問題)
○批判をうけることが予想された「帝国過去の施措政策」
→21か条要求(とりわけ第5号)に代表される対中国政策(中国政府に対して単独で影響力を確保しようとしていた)
ここから中国における既得権益の確保が重視されていたことがわかる。
なお、当時の日本はシベリア出兵を単独で継続中であり(英米仏は大戦終結にともなって撤兵)、諸国から東部シベリア地域に対する領土的野心を疑われていた。「帝国過去の施措政策」の1つとして、この点を考慮してもよい。
(5)について。なぜ軍縮には賛成したのか。
1920年に戦後恐慌がおこったため、租税収入が減少し、海軍拡張費が国家財政を大きく圧迫するようになっていた。そのことが、日本が海軍軍縮に応じた経済的・財政的な背景であった。