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年度 1987年

設問番号 第1問

テーマ 唐風文化から国風文化への変化/古代


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設問の要求は、弘仁・貞観期から摂関期にかけての文化の展開。
条件として、(a)文芸・(b)宗教・(c)生活などの各分野の動向に触れることが求められている。

まず弘仁・貞観期と摂関期(10世紀半ば以降)の違いから確認しよう。
弘仁・貞観期の文化(弘仁・貞観文化)
(a)文芸 漢詩文がさかん(貴族・官人の教養として漢詩文の素養が重視された)
(b)宗教 天台宗・真言宗という修行を重視する新仏教が伝来…密教
(c)生活 それまでの風習に多くの唐風の儀礼を取りいれて宮廷の儀礼が整備された

摂関期の文化(国風文化)
(a)文芸 かな文字の確立→和歌・かな物語が隆盛
(b)宗教 極楽浄土への往生を求める浄土教(浄土信仰)が普及
(c)生活 宮廷では年中行事が発達し、貴族はタブー(禁忌)にしばられた生活を送った。寝殿造(白木造と桧皮葺)・服装の和風化。

ただし、このような単純な対比で終わってしまってはダメだ。

第一に、設問では「文化の展開」が求められている。
弘仁・貞観文化と国風文化を対比して相違点を指摘にするだけでなく、連続している点(継承・発展という側面)についても記述することができるかどうかがポイントとなる。
(a)文芸 漢詩文は摂関期においても貴族の教養として重視され、勅撰漢詩文集こそ編纂されなかったが、『和漢朗詠集』などが編纂されている。また、『古今和歌集』は漢詩の形式にならいつつ和歌の形式を確立しようとする目的意識から編まれたものだとされ、『源氏物語』にしても『白氏文集』に対する教養が1つのベースになっていると言われる。つまり、漢詩文の教養を基礎として、その吸収のうえにたって文化の国風化が進んだのである。
(b)宗教 天台・真言の顕密仏教は摂関期においても鎮護国家の仏教としての役割を果たすと共に、現世利益をもたらすものとして皇族・貴族の尊崇を集め、その勢力をのばしていった。また奈良時代以来の神仏習合がいっそう強まり、日本の神は仏が仮に姿をかえて現われたものとする本地垂迹説が唱えられるようにもなった。
(c)生活 弘仁・貞観期以降、天皇を中心とする貴族社会の秩序維持のために儀礼が導入・整備されていった結果が、摂関期における年中行事の発達であり、タブー(禁忌)の肥大化であった。

第二に、上記のような違いが生じるに至った背景を明確にする必要がある。
最初に、国風文化形成の背景について教科書がどのように説明しているかを確認しておく。
かつて山川『詳説日本史』(1994年発行)では

「遣唐使の廃止や海外情勢の変化によって、大陸からの直接の影響が減少するとともに、従来の文化を基礎として、日本の風土や人情・嗜好にかなった高度の貴族文化がうまれてきた。」
と記述されていたのが、山川『詳説日本史【改訂版】』(1998年発行)では次のように記述されるようになった。
「日本と大陸との関係が大きく変化した9〜10世紀には、それまでの大陸文化の吸収の上に立って、旧来の日本文化がより洗練され、文学や芸術としてあたらしい姿をみせるようになった。」
“遣唐使廃止→大陸文化の影響が減少→文化の国風化”という図式が、山川の教科書の記述のなかから消えてしまっている点に注意したい。
そもそも、遣唐使が廃止されたからといって大陸文化の流入・大陸からの直接の影響が減少したわけではない。遣唐使が廃止されたのは、(1)唐の混乱・衰退、(2)朝廷の財政難とともに、(3)9世紀ころから唐や新羅の民間商人が九州に盛んに来航して大陸の文物(唐物と称された)を今まで以上にもたらすようになっていたことが原因であった。
つまり、大陸の文物が流入しなくなったから文化の国風化が進んだのではなく、大陸の文物がさかんに流入するという状況のもとで文化の国風化が進んでいたのである。

では、文化の国風化が進んだ背景はなにか。
一つには、唐の衰退=東アジアにおける唐を頂点とした国際的な政治秩序の崩壊と、そのなかでの周辺諸民族の自立化。その日本における発現形態の1つが、かな文字の確立に象徴される文化の国風化であった。
上で引用した教科書の記述を考慮に入れれば、こちらが背景として書けていれば十分。
二つには、律令国家・貴族社会の変質。律令国家の再編過程のなかで、貴族社会の編成原理が官僚制原理から天皇との私的関係へと変質していったこと。
弘仁・貞観期(つまり平安前期)は律令国家の再編が進んだ時期であるが、その時期は天皇が強い権力をにぎって貴族をおさえ、律令制原理の徹底(中国化の徹底)が進められた時代であった。
もともと日本の律令国家は、法(律令)による支配が導入されていたものの、貴族社会や地方豪族のもとでの在地社会の秩序維持を神話(神々の信仰)に依存していた。そのための措置が神祇官の設置であり、天皇家の神話を軸とする諸神話の統合(『日本書紀』や『風土記』の編纂)であった。ところが、8世紀半ばころから神話(神々の信仰)にもとづく社会秩序は動揺を迎える。その象徴が、飢饉・疫病に直面して昂じた仏教の鎮護国家思想であり、国分寺・大仏造立事業の展開である。それらは、もはや神話(神々の信仰)では社会秩序の維持が果たせず、仏教にその役割を期待する時代が訪れていたことを示している。
そうしたなかで桓武天皇以降、法(律令格式)による支配がさらに徹底される一方、儀礼による秩序維持がしだいに重視されるようになる。弘仁・貞観・延喜3代にわたる格式の編纂、令義解の編纂が進み、さらに貴族・官人に対して漢詩文や歴史の教養が強く求められていく一方で、弘仁・貞観・延喜3代の儀式(朝廷の礼儀作法やその次第を規定した書)の編纂を経て、宮廷の儀礼が形成されていったのだ。
(注)こうした儀礼の整備とは、いわば天皇が“神”にかわって現実世界を操作しようとする過程であり、タブー(禁忌)をフィクション化して観念的操作の対象とし、社会の秩序維持を図ろうとする過程である(フィクションにより天皇の身体→内裏−京という空間を浄化させていく)。

ところが、天皇への権力集中をともないながら律令国家の再編がすすめられた平安前期は、天皇が検非違使庁や蔵人所を通じて律令官庁の重要機能を掌握できるようになっていく過程であり(1989年度第1問を参照)、それゆえに貴族社会の編成原理が官僚制原理から次第に天皇との私的関係(個人的な結びつき)へと変質していく過程でもあった。いわば公(漢文)への私(かな)の浸透という事態。中国化の延長としての脱中国化、それが文化の国風化だった。


Z会の『日本史論述トレーニング』(p.52-55)では、国風文化形成の契機として「嵯峨上皇の死」が強調されている。確かにそういう要素があるとはいえ、「9世紀後半」をもって「その時期に新しい国風文化が形成されていったのである」(p.52)と表現するのはちょっと無理がある。そもそも清和天皇の貞観年間が「9世紀後半」に該当する。というわけで、p.55の“採点ポイント”に「嵯峨天皇の死…2点」とあるのは無視するのが適当。
(解答例)
唐を中心とする国際秩序が解体し、国内では律令国家が変質して貴族社会が成熟するなか、唐風文化の吸収の上に文化の国風化が進んだ。文芸では漢詩文の教養が重視される一方、かな文字の確立を背景に和歌などかな文学が隆盛した。宗教では密教が現世利益をもとめる貴族に普及する一方、神仏習合が進み、さらにケガレ忌避意識が肥大化するなかで新たに浄土信仰が広がった。生活では貴族の住宅が和風の寝殿造へ変化し、服装や調度品などの和風化も進んだ。
【添削例】

≪最初の答案≫
弘仁貞観期には唐の影響を強く受け、文芸では漢文学が盛んで勅撰漢詩集などの編纂が行なわれた。宗教では天台宗・真言宗などの密教が台頭し、神仏習合も進み、生活面では唐風儀式を取り入れた儀礼整備が行なわれた.しかし、9世紀末に遣唐使が廃止されたことで文化の国風化が進み、文芸面ではかな文学、和歌の発展、宗教面では浄土教の流行、生活面では貴族の住宅が寝殿造りに変化するなど、大陸文化の吸収・消化の上に日本独自の文化が形成された。

弘仁・貞観文化と国風文化とを対比させる形で答案を作成したのはいいのだが,生活面についての説明が対比になっていない。弘仁・貞観文化では「儀礼」という朝廷での公的生活について触れていながら,国風文化では「寝殿造」という貴族の私的生活の場について説明している。これでは対比にならないだけでなく,設問で求められている“展開”の説明にもならない。

> 9世紀末に遣唐使が廃止されたことで文化の国風化が進み
遣唐使廃止を国風化の根拠とするのは不適当。
なにしろ遣唐使廃止前後から中国からの民間商船の来航がさかんになり,遣唐使の廃止により大陸文化の流入がストップしたわけじゃないですから。