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年度 1989年

設問番号 第4問

テーマ 明治憲法制定の意義/近代


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設問の要求は、ドイツ側の忠告に対し、日本として立憲政治を取り入れる必要があることを説明すること。
ドイツ側の忠告は、“明治維新以来日本政府が進めてきた改革は余りに急進的であり、日本がいま立憲政治を取り入れようとするのは必ずしも賢明なこととはいえない”、というもの。

1882〜1883(明治15〜16)年という時代状況を確認しよう。
伊藤博文が憲法調査のために渡欧したのは明治14年の政変後のことだが、まず、その政変の背景に注目しよう。
●自由民権運動の高揚…国会期成同盟・私擬憲法の作成
  ↓
 議会のあり方など憲法の内容をめぐる検討が政府の最優先事項となる
 〜イギリス型(議院内閣制)の大隈とドイツ型(強い君主権)の岩倉・伊藤らの対立
●明治14年の政変…参議大隈重信の罷免
  ↓
 国会開設の勅諭…1890年の国会開設を公約・欽定憲法の方針を明示
 〜民間での憲法論議を封じ込める(議会の組織・権限を政府主導で規定)
つまり、1890年の国会開設を公約した以上、藩閥の政治的主導権を確保するには、それまでに欽定憲法を制定することが不可欠だったのである。

次に、同時期における他の諸政策を思い起こそう。
●松方正義大蔵卿の緊縮財政
 緊縮財政・紙幣整理により銀本位制確立をめざす(1882年日本銀行の設立)。
●自由民権運動…激化事件→政府による徹底した弾圧
●朝鮮で壬午軍乱(1882年)・甲申政変(1884年)…清との緊張が高まる(→1885年の天津条約で関係改善)
●井上馨外務卿の条約改正交渉
 領事裁判権の撤廃(法権回復)をめざして条約改正の会議が開始されたのは1886年のことだが(翌87年に三大事件建白運動がおこる)、外国要人接待の社交場として活用された鹿鳴館が竣工したのは1882年のこと。

これらのなかで憲法に関連するのは条約改正交渉。法権回復のためにも、欧米にならった法治国家としての体裁を整えることが必要であった。


(解答例)
各地で私擬憲法がつくられるなど自由民権運動が高まるなか、藩閥の政治的主導権を確保するため、すでに国会開設の勅諭を発して明治二十三年の国会開設を公約し、欽定憲法制定の方針を明示してしまっている。それゆえ、公約した国会開設の期日までに是が非でも憲法を制定する必要がある。さらに、旧幕府から継承した不平等条約の改正は明治維新以来の悲願であり、すでに井上馨外務卿のもとで領事裁判権の撤廃をめざして条約改正交渉に着手しており、そのためにも欧米諸国にならった法治国家の体裁を整える必要がある。