年度 1991年
設問番号 第1問
テーマ 律令国家の地方制度の成立過程/古代
説明文からデータを抽出する。
(1)646年大化改新の詔第2条(『日本書紀』)で郡の設置が規定されている。「およそ郡は四十里をもって大郡とせよ」
(2)地方制度の成立過程を示す木簡が藤原宮から出土。
683〜700年の木簡(1〜3)→国・評・里
702年の木簡(4) →国・郡(後欠)
次に教科書レベルの知識として
改新直後には評が設置され、大宝律令の施行により郡へ改称された
ことは知っているはず(1999年に難波宮跡から発見された木簡からも改新直後に評が設置されていたことが確認された)。評は国造の支配領域を再編成して設置されたもので、国造をはじめとする地方豪族がその役人に任じられた。
ところで、説明文のなかに引用されている改新詔第2条では郡とともに里の設置も規定されているが、果たしてその時期に里が設置されたのだろうか。50戸で1里を構成するという律令の規定を念頭におけば、戸が編成されていない段階では里が設置されているとは想定しにくい。最初に(全国的な)戸籍が作成されたのは670年の庚午年籍なのだから、支配の最小単位である戸が編成されたのは天智朝のことで、里の編成はそれ以降ということになる(木簡1から判断すれば天武朝ですでに里が設置されていたことがわかる)。
(B)
設問の要求は、木簡が7〜8世紀の歴史の研究に果たす役割。
藤原宮から出土した木簡によって“改新直後には評が設置され大宝律令の施行により郡へ改称されたこと”が判明したことは知っているはず。つまり、後世に編纂された『日本書紀』の記事を修正して史実を確定するうえで重要な役割を果たしている。
≪最初の答案≫ A大化の改新で公地公民の原則に基づき、国・評・里による地方支配の方針を示し、天武朝の庚午年籍によってそれらの地方支配が確立した。大宝律令時になると国・郡・里制に改められ、律令支配に基づく中央集権体制が確立した。 B日本書紀にみられる646年に郡を設置したという記述に反して、七世紀末の木簡には郡ではなく、評の文字が見られる。これは、日本書紀という書物の歴史研究における重要度を低めた。 |
Aについて。
> 天武朝の庚午年籍によってそれらの地方支配が確立した。
「庚午年籍」は天武朝ではなく天智朝。こういう単純なミスを犯さないこと!
それから,“庚午年籍によって国・評・里による地方支配が確立した”と判断するのは根拠が弱い。教科書のどこかにそのような説明がありましたか?また,問題で挙げられているデータ(木簡)からは,天武・持統朝に国・評・里制が確立していたことがわかるものの,何を画期として確立したのかまでは判断不能です。
Bについて。
> 日本書紀という書物の歴史研究における重要度を低めた。
これは言い過ぎ。
歴史研究あるいは歴史学はあくまでも文献に基づいた学問であり,持統朝以前についての基本的文献といえばやはり日本書紀しかない(扶桑略記や上宮聖徳法王帝説などもあるが,網羅的ではない)。そういう意味では,木簡が発見されようが,古代史研究における日本書紀の重要度は変わりはない(はず)。
ただ,文献には,その記述がどの程度,事実を反映していると信用できるのかという問題が常につきまとい(これはいつの時代についても同じだが),それを確かめるために複数の文献どうしをつきあわせることなどの手段で信用度をチェックすることが不可欠。木簡という考古学上の遺物はそれに役立つのです。つまり,日本書紀などの文献に記載されている史実が編纂者による粉飾を受けていないかどうかを確認するための手段となるというわけです。
さらに,日本書紀という正史ではうかがうことのできない制度の運用や貴族・民衆の生活実態も,木簡から知ることができます。
≪書き直し≫ A大化の改新で公地公民の原則に基づき、国・評・里による地方支配の方針を示し、天智朝の庚午年籍を基礎に天武・持統朝にはそれらの地方支配が確立した。大宝律令時になると国・郡・里制に改められ、律令支配に基づく中央集権体制が確立した。 B日本書紀などの書物は後世になってから編纂された書物で誤りを含む可能性があるが、木簡からは当時の生活・制度の実態を知ることができ、史書の記述の確認や修正にも貢献した。 |
OKです。