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年度 1992年

設問番号 第1問

テーマ 7世紀半に日本が百済を支援した背景(律令制形成期の国際環境)/古代


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設問の要求は、660年の百済滅亡の際、日本の朝廷はなぜ積極的に百済を支援したのか。 条件として、(a)年表を参考にすること、(b)国際的環境と国内的事情とに留意することが求められている。

条件のなかに“国内的事情に留意すること”が含まれているが、年表は国際関係だけに限定されている。自分の知識で補わなければならない。

国際的環境について。
まず年表の内容をチェック。
扱われている時期は、612年の隋による高句麗遠征から668年の高句麗滅亡まで。隋・唐という中国に新たに出現した統一国家による朝鮮半島への軍事侵攻の過程である。
列挙されているデータは以下の通り。
 隋が高句麗遠征を行ったこと
 唐が律令を整備したこと
 高句麗・新羅・百済が唐から冊封をうけたこと
 唐が西域へと領土を拡大したこと
 唐が新羅と同盟を結んで高句麗・百済を攻め、滅ぼしたこと
教科書で説明されている内容とほぼ同じである。
「7世紀以降,唐は律令法による中央集権国家として基盤をかためながら,周辺諸国に圧倒的な影響力をおよぼしはじめた。そのため,朝鮮半島では,高句麗や新羅が中央集権体制への整備を進めるなどして,国力の充実につとめた。そして,唐が高句麗に戦争をしかけると,朝鮮半島の緊張がいっきょに高まり,新羅は唐に接近し,新羅と対立関係にあった百済は日本との協調関係を深めるにいたった。」(『詳解日本史B』三省堂,p.25〜26)

ただし、ここに述べられた内容を説明しただけでは、“百済が日本に支援を求めた理由”の説明とはなっても、“日本の朝廷が百済を支援した理由”の説明にはならない。

そこで、律令国家の国際認識“新羅・渤海を朝貢国(従属国)と位置づけ、中国皇帝とは独自の立場から君臨しようとした”−唐にならった中華帝国の形成をめざした−を念頭において考えよう(名古屋大1992年第1問を参照)。
隋・唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり、そのなかで高句麗や百済が外交政策の必要から倭との協調関係を強く求めるようになれば、倭が高句麗や百済を朝貢国(従属国)と位置づけて君臨することも可能である(たとえば天武・持統朝では、唐との対立関係から日本へ遣使していた新羅を朝貢国(従属国)として扱い、新羅もそれを容認していた→唐との対立が解消されると新羅は対等の立場を主張して日本と対立するようになる)。 つまり、百済の滅亡は朝貢国(従属国)の消滅である。逆にいえば、倭の支援により百済が再興されたとすれば、倭は朝貢国(従属国)を確保し朝鮮半島への影響力を維持することができる。

次に国内的事情。
山川『詳説日本史改訂版』にはこれに関する記載がないが、三省堂『詳解日本史』では壬申の乱の背景についての説明のところで次のように説明されている。
「大化の改新以降,急速に進められた天皇への権力の集中は,伝統的な勢力をもつ有力豪族や地方豪族に深刻な不安をもたらした。」(p.28)
このような事情を前提とすれば、対外戦争の遂行が権力集中を図るという意図も持っていたことは了解できるだろう。


(解答例)
隋・唐の軍事侵攻により朝鮮半島の緊張が高まり、唐が新羅と提携して百済を滅ぼすと、中国皇帝とは独自の立場から朝鮮諸国に君臨しようとしていた倭は、百済再興を通じて朝鮮半島への影響力を確保すると同時に、対外戦争を通して権力集中を図り、改新政治のなかで生じた豪族の不満を解消しようとした。