年度 1992年
設問番号 第2問
テーマ 惣村の特徴/中世
(1)鎮守社の祭祀組織である宮座が存在
→惣村の自治的運営が宗教活動と結びついている
(2)寄合への出席義務 →全員参加の寄合で村政運営
(3)惣有地を私的に利用することを禁止
→共同利用の山野を惣有地(惣有財産)として共同管理(→村政運営の財政的基盤)
(4)私的制裁を禁止→警察・裁判権は惣村が掌握(自検断)、乙名など指導層が存在
(5)惣村が国人(地頭)に武力を提供する代わりに年貢の軽減と年貢の百姓請を実現
→最低限“年貢の百姓請”を引き出す
これらのデータをまとめあげれば答案が完成する。
とはいえ、もう少しデータを引き出してみよう。
まず、説明文(2)(3)(4)から住民への管理・規制が強いこと(共同体としての規制が強いこと)がわかるが、それは、村の個々の住民よりも惣村全体の利益・意思が優先されているということである。また説明文(5)では、乙名が個別にもっていた武家との軍事同盟関係(被官関係)が年貢の軽減を実現させる手段となっていることも述べられているが、そのことからも惣村の共同体的な規制が強いことがわかる。乙名=有力名主(地侍)層も惣村全体の利害を代表する形で行動しているのである。
なお、もともと百姓たち−とりわけ経営の不安定な小百姓−は、惣村という共同体に所属することではじめて農業経営(家)を成り立たせることができたのであり、惣村は百姓たちが経営としての自立を果たすための手段という性格をもっていた。だからこそ共同体的な規制が求められていた。
他方、説明文(5)では乙名の業績が強調されている。そのことを考慮に入れれば、乙名は年貢軽減を実現させることによって惣村での指導的地位を確保していたこともわかる。つまり、惣村の共同体的な規制は、乙名=有力名主(地侍)層が惣村での特権的な地位を確保・維持するための手段であったとも評価できるのである。
ここで意識しておいてよいのは、(3)や(4)では「村人」と表記されているが、(5)では「地下人」と、用語に違いがある点である。
「村人」は惣村の正式メンバー(宮座の構成員と重複)を指す言葉で、階層的には有力名主(地侍)層であった。それに対して、「地下人」とは、身分関係のさまざまな場面において、2つの相対する身分階層のうち下位のものを呼ぶのに用いられた呼称だが、惣村内部では有力名主(地侍)層に対してそれ以外の百姓(新興の中小名主や小百姓)を指す呼称として「地下人」という言葉が用いられていた−なお百姓請を“地下請”とも称するが、そのときの“地下”は“荘園領主−百姓”という身分関係における下位の階層=百姓を指す言葉として用いられている−。
もっとも、惣村を構成する百姓たちの間に有力名主(地侍)とそれ以外の百姓(新興の中小名主や小百姓)という階層が存在していたことは教科書レベルの知識だが、それらが「村人」と「地下人」の区別にどのように関連・対応するのかは説明文からはわからないし教科書でも説明はない。したがってこの用語法の違いまで答案に生かすのは難しいが、惣村内部に階層や内部矛盾が存在していたことは把握しておきたい。
注記 惣村が法の制定者であり、執行者であること、さらに資料文(3)−村人の身分を剥奪することが刑罰の1つとされていること(「村人の身分」を剥奪されたからといって村の領域外へ追放されたかどうかは不明)−から推論できる「村人の身分」を認定する主体であったこと、この3点を意識した形の別解をつくってみました。
≪最初の答案≫ 中世の農民の自治的・地縁的結合である惣では祭礼を行う宮座などの上層農民が支配層となった。そして、村民全員の出席が義務づけられた寄り合いでは、入会地の共同利用や惣掟を定め、違反するものは村の組織の下で罰した。さらに、地下請けを行って地頭などの介入を阻止し、自治を守って村内の団結を強めた。 |
> 祭礼を行う宮座などの上層農民
宮座そのものは祭祀組織であって,上層農民ではない。もう少し丁寧に表現しておきたい。
> 上層農民が支配層となった。
「支配層」との表現は不適当。
確かに上層農民(地侍層)は支配的地位にあり,地下請を実現することを通じてその地位を維持・確保していたことは事実だが,彼らは領主ではなく,あくまでも惣村という共同体の一員にすぎない。
それ以外はうまく書けています。