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年度 1994年

設問番号 第4問

テーマ 明治初期の国家構想/近代


問題をみる
設問の要求は,大久保利通が日本には君民共治の制がふさわしいと主張した理由。条件として,(a)当時の日本がおかれていた条件,(b)国家目標を考慮することが求められている。

まず,「当時」の情勢を確認しよう。
「当時」とは1873(明治6)年のこと。
史料にあげられている大久保の建言が提出された段階と明治六年の政変との前後関係は,問題文からは不明だが−実際には政変後に提出されている−,政変以前であれ征韓論をめぐって政府内部は分裂をおこしていた(答案にデータをいかすときは“征韓論をめぐって政府が分裂”などの表現して“明治六年の政変”という言葉を避けておけばよい)。さらに,岩倉遣外使節が外遊中に残った西郷・板垣を中心とする政府が実施した徴兵令・学制などの近代化政策は,国民各層の反発を引き起こしていた。このように政治情勢はきわめて不安定であった。
また,1873年は岩倉遣外使節が帰国した年でもある。その使節団は,もともと近代化政策が実現するまでの条約改正交渉の延期を要請するとともに,近代化政策実施にむけた欧米諸国の視察のために派遣されたものであった。そして,アメリカに渡ったときになって急遽条約改正を打診することが目的に追加されたものの失敗し,結局,欧米諸国の政治体制や経済状態を視察して帰国していた。そして,遣外使節の一員であった大久保利通は征韓論争のなかで“内治優先”を主張していた。つまり,欧米諸国の実情を目の当たりにした大久保は,条約改正を実現させるためにも,欧米諸国なみの国家づくりをめざして近代化政策を進めることが急務だと認識していたのであり,それが当時の国家目標()。
ただし,問題となるのは近代化政策の進め方である。そこで想起してほしいのは,政府の実権を掌握して以降(1874-78)に大久保が実施した政策である。彼は,警察・地方行政だけでなく殖産興業も担当する内務省を新設,内国勧業博覧会を開催して在来産業の技術革新を促進,さらに岩崎弥太郎ら「民間の大事業家に手厚い保護をあたえて,民間企業の育成をはかった」(三省堂『詳解日本史B 改訂版』p.220)。つまり,民間の経済活動を政府の保護・指導により活性化させることに力点を置いていたのである。財政・金融政策に関連づけて説明すれば,地租改正(1875年から本格化)と秩禄処分で国家財政の基礎をかため,国立銀行条例改正で金禄公債の資本化をはかって民間レベルでの資金供給を確保し,そのうえで政府指導のもとで民間での在来産業の育成をめざしたのが大久保政権だった(『本番で勝つ!日本近現代史』p.52〜55参照)。

次に史料の内容を確認しよう。
設問にあるように大久保は君民共治(後にいう立憲君主制)が日本にふさわしいと判断していたが,君民共治については(4)でイギリスを例に説明されている。そこでは,(1)「人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかる」と,(2)「君長もまた人民の才力を十分に伸ばす良政を施す」という2点が指摘されている。
それに対し,
民主政治については,「天下を一人で私せず,広く国家全体の利益をはかり,人民の自由を実現」しており,「実に天の理法が示す本来あるべき姿を完備したものである」と最大の評価を与えているが,「多くは新たに創立された国,新しく移住した人民によって行われている」とも述べている。
君主政治については,「蒙昧無知の民があって,命令や約束によって治められないとき」に「人民の自由を束縛し,その人権を抑圧して,これを支配する政体」と説明し,「一時的には適切な場合もある」と指摘している。

さて,民主政治は最大の評価を与えられるにもかかわらず,なぜ日本の政体としてふさわしくないのか。
「国民の政治的意識がまだ低いことを考え,完全な民主政治はそぐわないと判断し」と表現している解答例(Z会)もある。しかし,人民の政治的意識が低い=「蒙昧無知」な場合には君主政治が「一時的には適切」と述べられているものの,政治的意識の低さと君民共治の優越性については関連づけられてはいない(「人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかる」のは人民の政治的意識が低いからなのか!?)。民主政治を日本にふさわしくないと考えた理由は,(大久保の表現では)「多くは新たに創立された国,新しく移住した人民によって行われている」点に求めるのが妥当である。そもそも明治政府は“神武創業の始め”への復古−天皇親政−を掲げることで国家支配の正統性を基礎づけていたのである。

とはいえ,“天皇(親政)のもとでの中央集権的な支配をめざした・国家の統一を確保しようとした”ことを説明しただけでは,今度は,大久保が君主政治ではなく君民共治をふさわしいと考えていた理由の説明にはならない。
君主政治は「人民の自由を束縛し,その人権を抑圧」するが,君民共治は人民の権利実現・「人民の才力を十分に伸ばす良政」がおこなわれている,と大久保は説く。この違いに注目する必要がある。君民共治は人民の自由を保障し,その権利を実現させる政体だから日本にとってふさわしいと大久保は判断しているのだ。
では,人民の自由・権利を実現させることがなぜ必要なのか?それが「国の自由独立をはかる」ための基礎であり目的であると考えられていたからだ−大久保は官民一体を予定調和的に考えている−。ここが,当時の国家目標“条約改正を実現させるためにも,欧米諸国なみの国家づくりをめざして近代化政策を進めることが急務”につながる。

なお,「君民共治(後にいう立憲君主制)」がふさわしいと考えているからといって(カッコのなかは出題者の注記),公選制議会の設立を大久保が提案していると判断するのは性急である。もしそうなら大阪会議の結果が違ったものとなっていたはずである。
もちろん,明治5年ころには,憲法制定と民撰議院設立の構想が政府内部(左院)でも議論されていたし,その構想に参議板垣退助は賛同を示し,左院で調査・立案作業が進んでいた。しかし,大久保の「立憲政体ニ関スル意見書」(これが出題史料の典拠)にはいまだ国会開設の具体的構想は盛り込まれていない。基本的に彼は時期尚早論にたっていた(その点で民撰議院論争における加藤弘之と同じ立場)。


「条約改正」は“外交事情”だから答案のなかに書いてはいけないと判断する人がいるようだが,そもそも「条約改正」とは「国家の自主独立」という目標を象徴的に示す政治的課題であり,明治国家の大きな国家目標であった。したがって,答案のなかに書いて全く問題ありません。


(解答例)
当時の日本は,条約改正を実現させるため,欧米諸国なみの国家づくりを目標としていたが,征韓論をめぐって国論が分裂していた。そのなかで大久保はイギリスを模範とし,天皇のもとで国家的統一を確保すると共に,政府の指導のもとで民間活力を振興して国力の増進を図ろうと考え,君民共治の制をふさわしいと主張した。
【添削例】

民主制が多い新興国家とは違い,歴史が深く,君主にふさわしい天皇も存在していた日本は,西欧諸国に追いつくため,近代化をめざして富国強兵・殖産興業などの政策を取っていた。これらの政策は国民の存在を基本としていたため,国民を抑圧し,統制する君主政治も適さず,ゆえに,君民共治の制がふさわしいと判断された。

うまく説明できています。

ただ1点だけ,やや説明不足の箇所がある。それは
> これらの政策は国民の存在を基本としていたため
の箇所です。“存在”という表現では,資料文(4)で指摘されている「3200万余の人民がおのおの自身の権利を実現するために国の自由独立をはかり」という部分を表現するには説明が不足しているのです。

そもそも,国民が“存在”してさえいればいいのであれば,(極論だけど)国民が君主の奴隷的存在であってもいいわけです。または,国家あるいは政治を基本的に自分とは無関係なものとみなし,国家や政治に対する積極的な関心を持たない,いいかえれば傍観者的な政治意識しか持たない人びとが国民の大半であってもいいわけです(あるいは国民の大半をそういう状態に放置しておいてもいいわけです)。
ところが大久保は,それは不適切だと判断しているわけです。

その辺をもう少し説明できるような表現を考え直してみてください。

≪書き直し≫

条約改正を国家目標としていた当時の日本にとって,殖産興業・富国強兵による近代化が急務であったが,国民の近代化への意思の低さや明治維新直後の政情不安から,国民一人一人の自由独立と天皇を中心とした意識の統合が必要であった。そのため君主政治や民主政治はふさわしくなく君民共治が適していると考えられた。

> 国民の近代化への意思の低さや明治維新直後の政情不安から,国民
> 一人一人の自由独立と天皇を中心とした意識の統合が必要であった。

国民に「近代化への意思」が低いと,なぜ「国民一人一人の自由独立」が必要なのか。説明が不足している。もし大久保に「国民の近代化への意思」が低いという認識があったとしても,それゆえに「国民一人一人の自由独立」を保障することでその自発的活動を喚起することが不可欠だと発想しているのだから,そのあたりを明確に表現しておきたい。

なお,大久保は国民の自発的活動を喚起し,それを基礎として殖産興業政策を推進しようとしていたものの,公選制議会の設立についてはその必要性を意識しつつも消極的で,時期尚早の立場にたっていました。「人智の開明」化が十分に進んでいない,つまり国民の政治的意識が低いとの判断がその理由だったとされるんですが(鳥海靖『日本近代史講義 明治立憲制の形成とその理念』東京大学出版会,p.54),結局のところ,政治レベルでの民主化には手をつけずに経済レベルでの民主化だけを先行させるという,後進諸国にありがちの統治形態を大久保は構想していたわけです。これだと,大久保のいう「君民共治」もその実態においては「人民の自由を束縛し,その人権を抑圧」する政治に陥ってしまいかねないし,実際のところ,そういう傾向を示してしまいますね。

≪書き直し2回め≫

条約改正を国家目標としていた当時の日本にとって,殖産興業・富国強兵による近代化が急務であったが,国民の近代化への意識は低く,自発的意思の喚起による国民の自由独立と天皇中心の中央集権化政策による国民の統合が必要であった。そのため君主政治や民主政治はふさわしくなく君民共治が適していると考えられた。

民主制が多い新興国家とは違い,歴史が深く,君主にふさわしい天皇も存在していた日本は,西欧諸国に追いつくため,近代化をめざして富国強兵・殖産興業などの政策を取っていた。これらの政策は国民一人一人の自発的活動を基本としていたため,国民を抑圧し,統制する君主政治も適さず,ゆえに,君民共治の制がふさわしいと判断された。

前者はOKです。

後者も基本的にOKですが,
> 国民一人一人の自発的活動を基本としていた
の箇所は
国民一人一人の自発的活動が不可欠であった
と表現するのが妥当です。