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年度 1996年

設問番号 第2問

テーマ 守護大名・戦国大名と国人/中世


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設問の要求は,室町時代の守護が鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか。条件として問題文(1)の文を参考にすることが求められている(条件というよりヒントだが)。

まず問題文(1)の内容確認から。
●室町幕府が苅田狼藉の検断権を守護に付与
●守護請や兵粮米を名目とする守護による荘園・公領の侵略が多発

鎌倉期の守護と室町期の守護大名の対比はオーソドックスなテーマ。
≪守護≫
 軍事指揮官
 …権限は大犯三箇条に限定・国内の御家人との主従関係なし
≪守護大名≫
 一国全体に及ぶ領域支配(領国支配)を実現
 …(a)国人を被官(家臣)化,(b)国衙機能を吸収,(c)荘園・公領の土地支配(侵略)


設問の要求は,(A)室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方,(B)それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策。条件として(2)〜(6)の文を参考にすることが求められている。

まず問題文をチェック。
(A)室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方
 (2) 国人たちが守護の入国に抵抗・排除
 (3) 国人一揆の契約状のなかで喧嘩両成敗が規定されている
≪まとめ≫
地方の武士…独立性が強い・一揆を結んで相互の紛争を解決(自主的な地域権力を確立)

(B)それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策
問題文(4)〜(6)に示されている施策の内容を簡潔に表現するとともに,それがどのような意義をもったか・戦国大名が支配権を確立するうえでどのような役割を果たしたかを説明しておきたい。
 (4) 分国法で喧嘩両成敗を規定…国人一揆の取決めを吸収→紛争解決機能を戦国大名に集中
 (5) 検地を実施…家臣の支配地域(所領の規模)を正確に把握(貫高にもとづく新たな知行制を形成して主従関係を強化)
 (6) 城下町を建設して家臣らを集住させる…家臣の土地・農民に対する直接支配権を弱体化

なお,検地の実施によって家臣の所領の規模が貫高(年貢収納高を銭額に換算したもの)で統一的にあらわされ,貫高にもとづいて大名と家臣の主従関係が結ばれるようになったが,貫高は農民支配にも用いられていた(築城や治水事業などのための公事・夫役も貫高に応じて徴収)。このように貫高制のもとで,大名・家臣間の主従関係と農民支配が貫高によって統一的に行われるようになったのだが(一橋大96年第1問も参照のこと),この設問は室町期の地方武士と戦国大名の関係に焦点があてられているので,戦国大名による農民支配については正面切って説明する必要はない。


(解答例)
A鎌倉時代の守護は軍事指揮官にすぎなかったが,室町時代には国人の被官化,荘園・公領の侵略などを進め,領国支配を形成した。
B在地領主であった国人は一揆を結んで自主的な地域秩序を形成し,守護の支配に抵抗したり,相互の紛争を解決していた。それに対して戦国大名は,国人による私的な武力行使を禁じて紛争解決機能を自らに集中させ,検地を実施して主従関係を強化し,城下町集住策により国人の在地支配権を否定し,支配権を確立しようとした。
【添削例】

≪最初の答案≫

A侵略は禁じられていたものの室町時代の守護には,刈田狼藉をはじめとする,土地支配権があったが,鎌倉時代の守護にはなかった。

B室町時代,幕府は守護を通じて国人を統制しようとしたが,不安定な主従関係のため,国人と守護との間に対立が起こったり,国人だけで自治を行うところがあった。そのような中で,戦国大名は領国支配のために一揆の解体が必要であり,分国法の制定や家臣の城下集住,検地などの施策を進めた。

> A侵略は禁じられていたものの室町時代の守護には,刈田狼藉をは
> じめとする,土地支配権があったが,鎌倉時代の守護にはなかった。

設問は「室町時代の守護は,鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか」です。幕府から認められた権限(職権)の違いだけが問われているわけではありません。やや曖昧な言い方になりますが,性格やあり方の違いについて問われているのです。その点を意識した答案にしないとダメです。鎌倉時代の守護はどういう性格・特色をもち,それに対して室町時代の守護はどういう性格・特色を持っていたのか−−この問題で提示されている2行以内という字数制限をとりあえず度外視して,両者の違いをキチンと整理すること,その上で,字数制限に見合う形で内容を削って答案を作成することが必要です。

また答案の構成について言えば,
> 侵略は禁じられていたものの
の部分は余計です。これがわざわざ書かれてしまうと,“鎌倉時代の守護には侵略は認められていた”との判断が成立してしまいかねません。そうなんですか?

さらに,
> 刈田狼藉をは
> じめとする,土地支配権
という記述ですが,刈田狼藉(の検断権)は土地支配権ではありません。資料文(1)に書かれている「所領争いにおける実力行使などの暴力行為」を取り締まる権限が刈田狼藉(の検断権)です。

> B室町時代,幕府は守護を通じて国人を統制しようとしたが,不安定
> な主従関係のため,国人と守護との間に対立が起こったり,国人だけ
> で自治を行うところがあった。そのような中で,戦国大名は領国支配
> のために一揆の解体が必要であり,分国法の制定や家臣の城下集住,
> 検地などの施策を進めた。

設問で問われているのは,(1)室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方,と(2)それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策,ですよね。

ところが,答案の冒頭では
> 室町時代,幕府は守護を通じて国人を統制しようとした
とある。ここで書かれている内容は,設問の要求とは直接関係のないことがらです。

また,
> 不安定
> な主従関係のため,国人と守護との間に対立が起こったり,国人だけ
> で自治を行うところがあった。
と書いているが,問われているのは“室町時代の守護が直面した”地方の武士のあり方なんですから,「不安定な主従関係」について指摘するとしても,説明の順序が全く逆です。「守護との間に対立」を起したり,「国人だけで自治を行」っていたから,守護と国人との主従関係は不安定だった,と説明するのが適当です。
ただし,「守護との間に対立」を起したり,「国人だけで自治を行」っていたというのが,設問で問われている“地方武士のあり方”ですから,「不安定な主従関係」についてわざわざ触れる必要はありません。
設問の要求を把握すること。これをもっと意識してください。

さらに,“室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方”についての説明のなかで“一揆”について全く触れていない(「自治を行う」という形で内容に触れているとはいえ)のは不適当。とりわけ,“戦国大名の施策”についての説明のなかで「一揆の解体」に触れているのだからなおさらです。
山川『詳説日本史』では,国人一揆について次のように説明されています。

 守護大名の力が弱い地域では,しばしば国人たちは自主的に相互間の紛争を解決したり,力をつけてきた農民を支配するために契約を結び,地域的な一揆を結成した。これを国人一揆という。この国人一揆には,参加者のまもるべき規約を作成し,参加者がみな平等であること,決定は多数決で行われることをしるしたものが多くみられる。このような国人たちは,一致団結することで自主的な地域権力をつくりあげ,守護大名の上からの力による支配にもしばしば抵抗したのである。
資料文(2)(3)に記されているデータがきちんと説明されています。また,「自主的な地域権力をつくりあげ」と国人一揆の特色づけがされていますが,こういう表現は答案に活用できるように覚え込んでください。

続いて,“戦国大名による施策”についてです。
> 戦国大名は領国支配
> のために一揆の解体が必要であり,分国法の制定や家臣の城下集
> 住,検地などの施策を進めた。

「一揆の解体」だけが問題だったのですか?
確かに,分国法を制定して地域の最高権力が戦国大名であることを示すことによって,国人一揆のもとでの自主的な地域権力を解体しようとしたこと(その中の典型が喧嘩両成敗の規定=国人一揆の取り決めを吸収したもの)は,その通りなのですが,では,“家臣の城下集住”や“検地”といった政策も「一揆の解体」のために遂行されたのですか?(資料文(5)はどう読んでも「一揆の解体」に結び付きそうにない)。“家臣の城下集住”や“検地”がどのように「一揆の解体」に役立ったのか,説明してみてください。

≪書き直し≫

A刈田狼藉の検断権や使節遵行の権限を得,半済・守護請によって国人の被官化,荘園・公領の侵略を行い領国支配を実現した。

B在地領主である国人は一揆を形成し,紛争の自力救済などの地域的な自治を行っており,守護大名の領国支配に抵抗することもあった。それに対して,戦国大名は国人の自主的な紛争解決を禁じて,武力行使権を自らに集中させるとともに,検地,家臣の城下集住によって家臣との主従関係の強化や地域の一円的支配を図った。

戦国大名の条件=一揆の解体 と授業で習ったんですがここでは使えませんか?

> A刈田狼藉の検断権や使節遵行の権限を得,半済・守護請によ
> って国人の被官化,荘園・公領の侵略を行い領国支配を実現した。

O.K. です。

> B在地領主である国人は一揆を形成し,紛争の自力救済などの地域
> 的な自治を行っており,守護大名の領国支配に抵抗することもあった。
> それに対して,戦国大名は国人の自主的な紛争解決を禁じて,武力
> 行使権を自らに集中させるとともに,検地,家臣の城下集住によって
> 家臣との主従関係の強化や地域の一円的支配を図った。

O.K. です。

> 戦国大名の条件=一揆の解体 と授業で習ったんですが
> ここでは使えませんか?

確かに中世後期における国人たちは,一揆を結ぶことで在地(土地・人民)に対する自立的な支配権を相互に確保していました。その意味で「戦国大名の条件=一揆(一揆のもとでの自主的な地域権力)の解体」という話になるのですが,そこで言うところの「一揆」とは,(1)国人たちが対等な資格で盟約を結ぶこと(そしてそれにより自主的な地域秩序を作り上げること)だけではなく,(2)個々の国人たちが上級権力から自立的な在地支配権を確保していたことをも含んだ概念として用いられています。

しかし,狭い意味での一揆(江戸時代になって「徒党」と置き換えられることになる「一揆」)とは,その二者のうち(1)を指します。

そして,検地を通じた貫高制の実施についても,家臣の城下集住についても,直接的には国人たちの自立的な在地支配権((2))を弱体化するために遂行された政策であり,国人たちが盟約を結ぶことそのものを排除するために実施されたわけではありません。

したがって,「戦国大名は領国支配のために一揆の解体が必要」という風に議論を立てたいのであれば,その前提として“地方の武士たちが一揆のもとで自主的な地域権力を形成し”,そのもとで“紛争の自力救済を行っていた”ことに触れるだけではなく,“土地・人民に対する自立的な支配権を確保していた”ことまで触れておかないと,議論としての展開が不十分になります。つまり,「分国法の制定や家臣の城下集住,検地などの施策」が一体どのように“一揆の解体”と関係するのかが,答案からは読み取れなくなるのです。
そもそも資料文(5)(6)には,国人たちの地域的な一揆の形成に関する情報そのものは含まれていないのですから,“一揆の解体”と検地,家臣の城下集住との関連を答案作成者がどのように判断しているのかは,答案からはほとんど読み取れません。その結果,“一揆の解体”という(自分の知っている)命題と,資料文(5)=検地,資料文(6)=家臣の城下集住,とを機械的に接合しただけではないかとの印象が生じてしまいます。だからこそ,“一揆の解体”をメインに表現しようとするのなら,喧嘩両成敗にせよ,検地や家臣の城下集住にせよ,どういう意味で“一揆の解体”なのかをキチンと説明しないとダメなんです。