年度 1981年

設問番号 第2問


次の(A)・(B)二つの設問に答えよ。

 

(A) 平安時代、瀬戸内海やその周辺には、海賊がしきりに出没し、往来する船を襲っては人を殺し、財物を奪った。地方から都に帰る貴族が海賊を恐れたことは、紀貫之の『土左日記』によっても知ることができる。また『今昔物語集』には、豊後国(大分県)の講師(国衙に所属する僧)が、重任をこうために財物を船にのせて上京する途中、海賊に襲われた話を載せている。

 平安時代になって瀬戸内海で海賊の動きが活発になった背景には、どのような事情があったと考えられるか。150字以内で述べよ。

 

(B) 平戸・検見川間(地図参照)に堀割を開削して水を江戸湾に落し、沼の水面を低下させようとする印旛沼干拓の工事は、江戸幕府によって数度にわたって着手されたが、いずれも失敗に終った。

 干拓の目的は、天明年間の計画では、新田造成と水害防止にあった。これに対し水野忠邦の幕政改革の一環として計画された天保年間の場合では、新田造成と水害防止の他に、通船が新たに目的として加えられた。すなわち、天保年間に計画された堀割は、利根川水系の高瀬舟二艘が行き違うことができるように設計されており、その開削が成功すれば、江戸湾と利根川、ひいては銚子を経て太平洋を結ぶ航路ができる予定であった。

 天保年間の干拓計画で水運路の開発が目的に加えられた理由は、当時の国際的及び国内的条件からみて、どのように考えられるか。100字以内で説明せよ。

印旛沼干拓の関連地図