年度 1983年
設問番号 第1問
次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受験した多くのものが、これと同じような答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を150字〔句読点も1字に数える)以内で記せ。
次の(ア)〜(ウ)の文章は、10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる逸話を集めたものである。これらの文章を読み、下記(エ)の略系図をもとにして、設問に答えよ。
(ア)967年、冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白となった。しかし実頼は、故藤原師輔の子の中納言伊尹ら一部の人々が昇進をねらって画策し、誰も自分には昇進人事について相談に来ないといって、自分が名前だけの関白にすぎないことを、その日記のなかで歎いている。
(イ)984年、花山天皇が即位し、懷仁親王(のちの一条天皇)が東宮となったとき、関白は藤原頼忠であったが、まもなく故伊尹の子の中納言義懷が国政の実権を握るようになった。かねがね摂関の地位をねらっていた藤原兼家は、自分が将来置かれるであろう立場を考えたすえ、しばらくのあいだハ,その野望を抑えることにしたという。
(ウ)1107年、堀河天皇の没後、鳥羽天皇が即位したが、藤原公実は、自分の家柄や、自分が大臣一歩手前の大納言であること、それに摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行があることなどを理由に、鳥羽天皇の摂政には自分をするよう、天皇の祖父の白河上皇に迫ったが、上皇はこれを聞きいれなかった。
(エ)略系図
(注)⑴,⑵,⑶…⒀は,本系図における皇位継承順,①②③…⑬は,同じく摂関就任順を示す。
〔設問〕
藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情と、藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情とを手がかりにしながら、(ア)(イ)のころの政治と(ウ)の頃の政治とでは、権力者はそれぞれ、どのような関係に頼って権力を維持していたかを考え、その相違を150字以内で述べよ。
〔答案例〕
(ア)(イ)は、摂関時代のことを述べた文章で、この時代には、摂関家の推薦により高い地位とよい収入とをえようとした受領層の支持を受けて、摂関家が、政治の権力をにぎった。(ウ)は、院政時代のことで、この時代には、権力者の上皇が、下級貴族や武士を院の近臣として組織し、その力を背景にして権力をにぎっていた。