年度 1986年

設問番号 第2問


下の文章を読み、設問A、Bに答えよ。

 応永35年(1428)正月、将軍足利義持が跡継ぎを定めないままなくなると、すでに仏門に入っていた弟の一人(後の義教)が後継者に定められ、直ちに還俗して、幕府の首長としての政務を行なった。前年からの飢饉に加え、悪性の伝染病が流行して多くの死者が出たので、ながく続いてきた応永の年号も改められて、四月から正長元年となった。七月には称光天皇がなくなり、後花園天皇が跡を継いだ。その八月に近江で馬借が徳政をもとめて蜂起し、たちまち京都・奈良にも波及した。興福寺の大乗院の門跡の日記の九月の条には、
「一 天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、雑物等恣にこれを取り、借銭等ことごとくこれを破る。……日本開白以来、土民蜂起これ初めなり」
とあり、奈良の春日神社の神官の日記も、京都での蜂起を記したあと、
「コレヲハジメテ、伊賀・伊勢・宇陀・吉野・紀伊国・和泉国・河内・堺、惣ジテ日本国ノコリナク御徳政ナリ。当国ニモ里別ニ徳政ヲカル(施行される)ナリ」
と記している。また奈艮市柳生の峠口の、地蔵尊を彫りこんだ巨石の一部には、
「正長元年ヨリサキ者、カノべ四カンガウ(神戸四カ郷、春日社領の大和国大柳生・坂原・小柳生・邑地のこと)ニヲヰメ(負目、負債)アルべカラズ」
と正長元年の徳政の実施をつたえる碑文がきざみこまれている。

A この時の徳政が非常に広汎なものとなった背景には、どのような事情が考えられるか。箇条書にして3カ条以上、4行以内で答えよ。

B この時の徳政と永仁の徳政令の場合との相違点について2行以内で述べよ。