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00347/00347 GED01324 つかはら RE^2:日本史】近現代史を教える(8)
( 6) 95/07/12 15:33 00340へのコメント
------> #340 久米仙人さん
帝国議会が初めて開設された1890年が39歳ですが
ちょうどそのころは 三条実美を初め 元田永孚・吉井友実らが相次いでなくなり、
側近としては 高齢の佐々木高行を残すぐらいになってしまっていまして、どちら
かといえば 明治天皇は孤立ぎみです。
もともと 大久保利通が暗殺された直後に 元田永孚が中心になって 天皇親政を実
質的にも実現させようとする動きがあったのですが、結局それが 封じ込められ、
さらに 内閣制度創設で宮中と行政府との区別が明確にされて以降は やはり明治天
皇はロボットのような存在であったといえるかもしれません。
だからといって 天皇が自発的に何らかの政治的役割を果たすことがなかったかと
いえば、それは違います。『昭和天皇の独白録』が文庫化されましたが、あれなん
かを読むと ある程度実感できると思うのですが、天皇は 上奏してくる人々に対し
て けっこう積極的に意見を述べています(あの『独白録』には言い訳がましいと
ころも見られますし、あとからの 政治的意味あいをもった記録ですから 一般の回
想録と同様 注意して読まないとだめですが)。その点は 明治天皇についても あ
る程度あてはまるようです。
最初の政党内閣である第1次大隈内閣の文部大臣尾崎行雄は いわゆる共和演説事
件で辞職を余儀なくされますが、尾崎の罷免を明治天皇が促していたという話です
し、また 1892年の第2回総選挙での選挙干渉についても 民党(自由党と立憲改進
党)の議員が落選するようにと かなり強硬な態度表明をおこなっています(選挙
干渉を指揮した品川弥二郎内務大臣のもとへかなりのお金が流れたとも言われてい
ます)。また、侍従を派遣して天皇なりの情報収集もはかっていたようです。です
から 情報が天皇のもとに入ってきていない・天皇は総べての重要な情報から隔離
されている というようなことはないです。
ただ 明治前期以来の側近たちが相次いで死去し、さらに 伊藤や井上毅らの存在を
考えれば(松方正義は 天皇に対しては「取り調べまして お答え申しあげます」と
しか しゃべれなかったという話ですけど(^^;) なかなか 天皇自らの政治的意思
を政治運営の中に反映させることは難しかったようです。
この点は 昭和戦前期における昭和天皇とは異なるところです。昭和天皇の場合
は天皇の意思を政治運営に反映させるべく 牧野伸顕や鈴木貫太郎らが けっこう
立ち回っていますから(牧野伸顕日記や奈良武次日記[だったけなぁ(^^;]で
その辺の具体的な話が明らかになってきているようです)。
結局のところ 天皇自身が自発的に自らの政治的意思・判断を示そうとするか、そ
れを政治運営に反映させるよう画策できる側近(侍従長なり内大臣・宮内大臣な
り)が存在しているかどうかによって 天皇が具体的に果たす政治的役割は異なっ
てくると言えます。なにしろ 天皇は 国務に関しては内閣の輔弼を受けない限り何
もできませんでしたし、統帥に関しても 統帥部(参謀本部なり海軍軍令部なり)
の輔弼を受けない限り何もできませんから、摂関政治の時代の天皇と関白の関係と
おなじようなもので、天皇ならびにその側近たちと他の勢力との駆け引きのなかで
天皇は政治的役割を果たしていくしかなかったし、現実に明治天皇なり昭和天皇な
りは それをある程度は主体的に果たそうとしていたと言えます。つまり、単なる
ロボットなどではなかったという話です。
というわけで
>>仮に内閣が憲法停止という上奏をした場合、天皇は許可しないというこ
>>ともありえたのでしょうか?
の質問ですが、天皇が許可しないということもありえます。要は内閣(ならびに
それを支える勢力)と天皇(ならびにその側近勢力)との力関係の問題でしょう。
(なにしろ 天皇が統治権を総攬するというのは 形式ですが、けっして建前では
ないですから)
ただ、元老たち自身 憲法を停止するなどと本気では考えていなかったと思いますが。
つかはら
00394/00396 GED01324 つかはら RE:摂関時代の天皇とは違うのでは
( 6) 95/07/26 00:47 00348へのコメント
------> #348 OLDCATさん
夏期講習に突入したものですから レスが遅れてますが(^^;....
>> 戦前の天皇制では、天皇の国務は国務大臣の「補弼」を要しますが、統帥につ
>>いては、 軍令機関の補佐はあるものの、 軍隊は天皇「親率」で、国務の場合は
>>「内閣がもってきたから反対できなかった」などということもできたが、統帥に
>>ついてはそうはいえない建前だったと思います。
私は 統帥権の発動については 参謀本部なり海軍軍令部なりの軍令機関が輔翼する
ことになっているんだから 内閣による国務の輔弼と形式上も似たようなもんだろ
うと軽く考えてたもんですから、この OLDCATさんの指摘で あれっ? じゃぁ私の思
い込みは間違ってたのかなぁ(^^;と思いまして、いくつか本を漁ってみましたとこ
ろ、山田朗氏の『大元帥昭和天皇』のなかで大本営命令の書式が紹介されていまし
た。
法律とか普通の勅令の場合は国務大臣が必ず副署することになっていますが、そこ
で紹介されている大本営命令の書式では参謀総長や軍令部総長は 副署の国務大臣
に相当する位置にはおらず、単に命令を伝達する存在にすぎないです。
ということは 形式面からいえば 軍令機関は 内閣が天皇に対して有している関係
以上に、天皇に対して低い位置にいて 天皇の命令を遵守する立場にあるはずなん
ですね。そういう意味では 国務と統帥とでは 天皇の占める地位が異なると考える
方が適切なわけですね。
ただ、私が#347で指摘したかったのは 実際の運用においては (国務については)
天皇ならびにその側近と内閣との間での、(統帥については)天皇ならびにその側
近と軍令機関との間での 駆け引きを通じて、天皇は政治的役割を果たしていたと
いうことです。実際のところ 軍令機関にせよ 天皇の意向に(厳密な意味で)従っ
ていたわけではないわけですから、そう言ってよいのではないかと考えています。
私が摂関政治期の天皇と関白の関係を出したのも そのパターンの一例としてです。
つまり、摂政の場合は天皇の代行者ですから事態は異なりますが、関白は 天皇の
唯一の相談役であり天皇が裁可を下す前に相談しなければならない相手だとして
も、やはり最終的な決断は天皇が下すわけですから、その裁可をめぐって 天皇と
関白との間に対立が生じる可能性がありますし、現実に摂関政治の全盛期において
も対立が生じることがあったようです。つまり たとえ摂関政治の全盛期であった
としても、天皇は自らの政治的意思を政治運営の中に反映させることが可能であっ
たわけです。
ですから
>> 摂関時代のことはよくわかりませんが、摂政や関白が軍令的な事柄について発
>>言しても「統帥権干犯」などにはならなかったのではないかと思いますが……。
という OLDCATさんの指摘される視点とは ちょっと視点がずれているわけです(^^;。
つまり、国務と統帥の分離というレベルではなく、国務・統帥の両分野での天皇と
それを輔弼・輔翼する機関との関係に焦点をあてたわけです。
それはともかく
>> そういうなかで、よくも悪くも、政治と軍事の両方に通じ、国際問題にも国内
>>問題にもバランスをもって、総合的に考え判断できるのは、昭和天皇だけだった
>>と思います。それに、総理や参謀総長などは次々と交代しますが、昭和天皇は、
>>摂政就任以来の経験の蓄積があるわけですから、政治家としても軍人としても、
>>力が全然違ったと思います。
私はそこまで 昭和天皇が有能な政治家・軍人だったとは思えないんです。まぁ、
明治天皇との比較という点ではそうも言えるのかなとは思うのですが、個人として
観た場合はどうなんでしょう?
私としては 昭和天皇個人というよりも 昭和天皇とその側近(牧野伸顕・鈴木貫太
郎や木戸幸一など)の集団意思という風に表現したいなという気がします。たとえ
ば、さきほど出した山田朗氏の『大元帥昭和天皇』なんかを読んでも 昭和天皇の
情勢に対する判断は けっこう側近の判断に左右されている部分も多いんじゃない
のかなぁという印象をうけます。
その意味で 「政治と軍事の両方にわたって総合的に考え判断を下すことのできる
地位にいたのは 形式上 昭和天皇だけだった」というのであれば 私も同意できる
のですが、事実において 昭和天皇が総合的に考え判断を下していたんだろうかな
ぁというのは疑問です(なにしろ 『独白録』なんかでも 降伏は連合国に対して一
矢を報いてからにしたい というようなことをしゃべってますしねぇ(^^;)。
PS
>> 2・26事件なんか、侍従武官長をふくめ、軍の首脳部まで動揺的で、「青年
>>将校」に同情的だったのに、昭和天皇が断固として「暴徒」と断じて即刻の鎮圧
>>を命じたということですから。
あれはやはり、側近の斎藤実内大臣・鈴木貫太郎侍従長を殺傷されたことが大きか
ったんではないでしょうか。
でも それだけの決断でもって 青年将校たちを反乱軍と規定し、鎮圧を断乎として
命じることができたわけですから、『独白録』で出てくるような 英米との開戦に
ついて 反対していたらクーデターが起こっていたかもしれない なんていうような
回想は やっぱり眉つばのように思いますね(もちろん 弟に対する警戒とかもあっ
たのかもしれませんけど)。
つかはら
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