目次

1 開国と安政の改革 −1852〜1856年−


外交史 ペリー来航により日本が鎖国から開国したのは,小学生でも知っている常識だが,江戸時代の日本が外国との門戸を閉ざしていた,というのは真っ赤なウソ。では,なにが開国なのか?

1 江戸時代の対外関係(鎖国)と日米和親条約との違い

鎖国
(1)日本人が国外に渡航することを禁止。
(2)対外交渉の窓口を長崎・鹿児島・対馬・松前の4つに限定。
 (a)長崎は幕府が直轄し,オランダ・中国と貿易だけ
 (b)鹿児島(鹿児島県)では島津氏(薩摩藩)が琉球と国交・貿易
 (c)対馬(長崎県)では宗氏(対馬藩)が朝鮮と国交・貿易
 (d)松前(北海道)では松前氏(松前藩)が蝦夷地のアイヌと交易

 このシステムを祖法(昔からの慣わし)として堅持しようとする対外姿勢が鎖国だった。18世紀末以降,欧米諸国が接近するなかで強化され,1844年オランダ国王ウィルレム2世が12代将軍家慶に開国を勧告してきたことへの対応を決めるなかで完成したものだ。
 また,アヘン戦争での清の敗北をうけて出された天保の薪水給与令(1842年)では,異国船が来航した場合,薪水や食糧を与えて退去させる,というシステムが採用され,鎖国体制を補完していた。  

日米和親条約
(1)アメリカと国交関係を新しくむすぶ。
(2)下田(静岡県)・箱館(北海道)の2港を開き,日本が薪水や食糧を提供する。ただし,自由な貿易はおこなわない。
(3)他国の外交官−領事−が日本に常駐する体制が始まる。
 →1856年,アメリカ総領事ハリスが下田に着任。
(4)アメリカに対してだけ最恵国待遇を認める。
  日本には最恵国待遇が認められていないので不平等な内容。

 このうち(2)は,開港場を指定している以外は,天保の薪水給与令とほぼ変わりがない。日米和親条約によって幕府の統制がおよばない形での自由な貿易がはじまったのではなく,逆に禁止されていたのだ。ところが,(1)や(3)はそれ以前のシステムとは異なり,日本が伝統的に国交をむすんできたのは朝鮮と琉球だけ,という江戸幕府の理屈が崩れてしまっている。また国交といっても,朝鮮や琉球との関係は,日本側の意識では自国を上位におき,それら2国を従属国として位置づけるものだったが−−東アジア流儀の国際関係−−,日米和親条約でのアメリカとの関係は,形式面では対等な国家どうしの関係なのだ−−西ヨーロッパ流儀の国際関係−−。つまり,西欧流儀の国際関係のなかに日本がまきこまれたことが開国という意味なのだ。

2 開国への経緯

 1853(嘉永6)年6月,アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが,サスケハナ号など軍艦4隻をひきいて相模(神奈川県)の浦賀に来航し,開国を要求。中国貿易や捕鯨業のために日本近海を往来するアメリカ船がふえたため,燃料や食糧などの供給地を日本にもとめ,自国民の安全を確保しようとしたのだ。
 幕府は,はじめ要求を拒絶したが,ペリーの強硬な態度におされてアメリカ大統領フィルモアの国書をうけとり,翌年の回答を約束してペリーを退去させた。さらに7月ロシア使節プゥチャーチンが長崎に来航。ペリーはいったん琉球に戻っていたが,翌1854年軍艦をひきいて再び来航し,軍艦の威力をつかって回答を強く求めたため,老中阿部正弘のもとで日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
 これにつづいて幕府は,イギリス・ロシアとも同様の条約を結び,オランダとはそれまでの貿易のしくみを文章にして条約を結んだ。
 なお,日露和親条約(日露通好条約)では国境の画定が行われたことに注意。

日本とロシアの国境
樺太=国境を定めずに両国民の雑居の地とする
千島列島=択捉島と得撫島の間に国境を設定

政治史 ペリー来航をきっかけに,老中阿部正弘が幕政改革を実施する。

3 開国以前の政治・社会

その前に,江戸幕府のもとでの政治・社会のしくみを確認しておく。

(1)武士身分だけが政治に参加した
 政治に参加したり政治的意見を表明したりできるのは,基本的に武士身分(士)だけであり,それ以外の身分の人びと(農工商)は支配を受けるだけの存在だった。
(2)武士身分のなかには家格にもとづく階層秩序があった
 支配階層として政治を担う武士は,幕府や藩という主従制を原理とする集団に所属することによってはじめて武士身分に位置づけられており,その集団のなかには,それぞれの家が世襲している石高(家禄)で表される家格(家柄)にもとづいた階層秩序が存在した。そして,武士は家格に応じた役職につくものとされていたため,下級武士が重要な役職に就くことはなく,支配階層の一員としての自覚をもっていたとしても才腕をふるう機会に恵まれなかった。
(3)国政の運営は譜代大名・旗本らが独占していた(幕閣専制)。
 中央政府である幕府が国政を独占し,幕府の役職(幕閣)に就いた譜代大名・旗本らが実務を担っていた。そして,朝廷(天皇・公家)は政治の局外におかれ,親藩(将軍家の一族)や外様大名は原則として幕府の役職には就任できず,国政(幕政)への発言権がなかった。

 ところが,江戸時代後期には幕府も諸藩もともに,社会や国際情勢の変化に対応できる統治能力を失いかけていた。幕府は,天保の改革が失敗したことで諸大名への統制力が低下していたし,経済発達のなかでいっそう複雑化していく社会に対応しきれなくなっていた。また,幕府・諸藩を問わず財政難に悩まされていたため,18世紀末以来の欧米諸国の接近のなかで,沿岸防備を強化するにしても財政的な負担が重すぎて積極的な対応がとれずにいた。
 そこで,幕府や諸藩では,家柄にかかわりなく有能な人材を登用することによって統治能力を回復しようとする試みがおこなわれていく。そのなかで,主君から支給される石高(家禄)に応じた職分をつとめるという武士身分のあり方−武士内部の身分格式−がくずれはじめていき,この流れが明治維新での武士身分の解体へとつながっていくのだ。

4 安政の改革

老中阿部正弘が実施した幕政改革を安政の改革とよぶ。

安政の改革
(1)幕閣独裁を修正して雄藩連合へ
 @開国問題を朝廷に報告,大名・旗本に意見を求める
 A前水戸藩主徳川斉昭を海防参与に登用 (2)西洋技術をとりいれて軍制改革に着手
 @洋学所を設置…欧米の軍事技術・政治制度の研究など
 A大船建造を解禁→海軍の創設(長崎に海軍伝習所)
 B台場を築造(品川沖)…江戸湾防備の強化

(1)幕閣独裁の修正 老中阿部は岩瀬忠震・川路聖謨ら有能な人材を登用して対外交渉にあたらせるとともに,朝廷と有力大名(雄藩)の協力を得て挙国体制を整えようとした。譜代大名・旗本の幕閣だけによる国政運営をやめて,朝廷の権威を利用し,諸大名の意見を反映した国政運営を実現させることで―公議の尊重―,幕府の指導力を回復させようとしたのだ。そのため老中阿部は,親藩の徳川斉昭(水戸)・松平慶永(越前福井),外様大名の島津斉彬(薩摩)らの有力大名と提携した。
(2)西洋技術の導入 欧米諸国に対抗するためには,西洋技術の導入が緊急の課題だった。そこで1855年洋学所が設立され,翌56年蕃書調所,1863年開成所と改称された。教官には西周(オランダに留学・『万国公法』で西欧の国際法を紹介)・津田真道(オランダに留学・『泰西国法論』で西欧の憲法理論を紹介)らがいた。また高橋由一(のちイギリス人ワーグマンから油絵を学ぶ・『鮭』)らが西洋画の研究を行った。
 大船建造の解禁は,「五百石以上の船,停止のこと」と規定された武家諸法度を改訂したもので,幕府・諸大名の協力のもとでの海軍の創設を意図していた。幕府はオランダから軍艦を購入して長崎に海軍伝習所を開設し,陸軍についても講武所を設置して洋式砲術を訓練させた。

洋学研究・教授機関の変遷
蛮書和解御用→洋学所→蕃書調所→開成所→大学南校

諸藩の動き
水戸藩(徳川斉昭) 幕府の命令で石川島造船所を建設
薩摩藩(島津斉彬) 集成館を建設(反射炉・ガラス工場などの洋式工場群の総称)

5 幕閣の分裂−将軍継嗣問題−

 親藩・外様の有力大名と提携し公議を尊重することで幕府を再建しようとする老中阿部正弘の政策は,徳川斉昭(水戸)や松平慶永(越前)・島津斉彬(薩摩)らの幕政への発言力を拡大させた。ところが,彼らは本来,幕政に参加する資格をもっていなかったのだから,譜代大名など幕閣のなかから反発がでてくるのも当然。この両者の派閥抗争が,13代将軍家定の後継ぎ争い(将軍継嗣問題)として表面化する。

将軍継嗣問題
一橋派 候補=一橋家の徳川慶喜(徳川斉昭の子)
    徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬など雄藩連合派
 ↑↓
南紀派 候補=紀伊藩主徳川慶福(将軍家定のいとこ)
    井伊直弼(彦根)など幕閣独裁派

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