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2 安政の五か国条約 −1856〜1860年−


外交史 将軍継嗣問題で幕閣が分裂しているころ,アメリカ総領事ハリスが下田に着任し,貿易開始を要求するハリスとの交渉が始まった。

1 条約勅許問題

 ハリスと交渉を担当する責任者の老中堀田正睦は,開国・貿易開始に積極的だった。欧米諸国に対抗するための経済発展・国力増強には欧米との貿易が不可欠だという判断だった。とはいえ,徳川斉昭(水戸)ら反対派(攘夷派)が存在したため,孝明天皇(統仁)から条約調印の承諾(勅許)をえることによって国論の統一をはかろうと,老中堀田が京都に向かう。ところが,孝明天皇は条約締結に反対・攘夷の立場をとっており,水戸藩など攘夷派の朝廷工作も激しかった。
 また各地の下級武士たちが,脱藩(許可なく藩の領地を離れること)して京都にあつまり,条約勅許の阻止に動いていた。支配者層の一員としての自覚をもちながらも政治から疎外されていた下級武士たちが,攘夷という孝明天皇の意思を擁護し,その実現をかかげることで(尊王攘夷論),みずからの意見を幕政へと反映させようとしていたのだ。彼らにとっての尊王論は,藩という枠を逸脱し,家柄にもとづく階層秩序の束縛から自由になって政治的発言をおこなうための手段だった。

2 安政の五か国条約

 1858(安政5)年,幕府では井伊直弼(彦根)が大老に就任した。井伊の立場は,朝廷の意向は尊重するが,外国との戦争を避けるために条約は調印する,というものだった。だから,孝明天皇が修好通商条約の調印に反対したものの,ハリスがアロー戦争を利用して条約調印をせまるなか,日米修好通商条約に調印した。自由貿易を規定した不平等条約だ。
 これにつづいて幕府は,イギリス・ロシア・オランダ・フランスとも同じような条約を結んだ。それらを総称して安政の五か国条約とよぶ。

自由貿易の規定
(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市
  →神奈川開港にともない下田は閉鎖
(2)開港場に居留地を設定し,欧米人の居住・通商は居留地内だけに制限
(3)貿易は自由貿易の形式をとり,幕府の役人は介入しない

 神奈川の開港は翌1859年と規定されていたため,幕府は貿易港の建設場所として神奈川の宿場に近い漁村横浜を選び,横浜築港・居留地の土地整備を強行した。アヘン戦争後の清での状況を教訓として生かし,貿易をめぐる主導権を欧米に奪われないよう,先手をうったのだ。

不平等な内容
(1)日本人に対して罪を犯した欧米人はその国の領事裁判所で裁判する−領事裁判権(治外法権)の承認−
(2)輸出入にかかる関税率は相互で協定する−関税自主権の喪失−
(3)和親条約で規定されていた片務的な最恵国待遇を継承

政治史 大老井伊直弼のもとで,日米修好通商条約が調印され,さらに13代家定の後継ぎには紀伊藩主徳川慶福が決定した(14代将軍家茂)。しかし,孝明天皇の意思を無視した形で条約調印を強行したため,国論の分裂は不可避だった。

3 安政の大獄

 幕府による日米修好通商条約の調印に対して,孝明天皇は水戸藩に対して密勅を下し,幕府に対抗する姿勢を示した。そこで大老井伊は,幕府の施策を批判した梅田雲浜(小浜藩士・攘夷派)や橋本左内(越前藩士・適塾出身の蘭学者で開国派)らを逮捕し,徳川斉昭・島津斉彬・松平慶永ら一橋派の有力大名や攘夷派の公家たちを処罰するなど,徹底した弾圧をおこなうことによって政治権力の分裂を防ごうとした。安政の大獄(1858〜1860年)だ。
 ところが,かえって攘夷派の下級武士たちからの強い反発をまねいた。貿易開始にともなう攘夷意識の高まりともあいまって尊王攘夷運動をさらに高揚させたのだ。その結果が,1860(万延元)年の水戸藩を脱藩した武士(浪士)たちによる井伊直弼暗殺事件(桜田門外の変)だ。
 幕府の最高責任者であった大老が暗殺されたという事態は,幕府の権威を大きく低下させてしまう。それに対処すべく,幕府は朝廷との和解により権威の回復をはかった。老中安藤信正による公武合体運動だ。かつては政治の局外におかれていた朝廷が国政のもう一つの中軸として登場してきた。


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