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3 貿易開始と尊王攘夷運動 −1860〜1864年−


経済史 1859年横浜・長崎・箱館が開港した。鎖国のもとでの貿易とは異なり,幕府役人が干渉しない自由貿易が始まったのだ。

1 横浜開港後の貿易動向

貿易の内容
(1)中心港:横浜が約80%
(2)イギリスが主要な貿易相手
  →アメリカは国内での南北戦争のため後退
(3)輸出品:生糸が約80%,茶・蚕卵紙などが続く
(4)輸入品:綿織物・毛織物が中心
(5)開港直後は輸出超過
  →1867年から輸入超過に転換

 輸出入の増大は国内の関連産業にさまざまな影響を及ぼした。まず生糸の輸出は養蚕業や製糸業を急速に発展させ,製糸業の一部にはマニュファクチュア(工場制手工業)が普及した。他方,安価な綿織物の輸入は綿作・綿織物業など綿業を動揺させた。
 また,貿易の開始とともに金が大量に流出した。(1)貨幣は同種同量で交換するという安政の五か国条約の規定を背景とし,(2)金銀の交換比率(比価)が日本では外国にくらべて銀高・金安の傾向にあったためだ。

金銀比価の違い
≪外国≫金1:銀15 ←→ ≪日本≫金1:銀5

 これに対して幕府は,金の量目を減らした万延小判を鋳造することで金銀比価を外国と同じ1:15に変更し,金の流出を抑えたが,貨幣の価値を引き下げたのだから物価騰貴の一因となった。

2 株仲間中心の流通システムの動揺

 横浜などでの貿易が自由貿易であり,外国商人の経済活動が居留地のなかだけに制限されていたことは,特権をもたない在郷商人にとって絶好のビジネス・チャンスだった。彼らは,江戸・大坂の株仲間を通さずに,生糸・茶などの商品を直接横浜の開港場へもちこんでいったのだ。そのことは,株仲間のもとでの既存の流通システムを動揺させた。
 幕府はもともと,大坂や江戸の問屋商人が組織した株仲間を公認することによって流通を統制していたが,このシステムは,19世紀前半の文化・文政期にはすでに動揺していた。農村在住の在郷商人が台頭したり,諸藩で専売制がさかんになったため,株仲間の集荷力が低下し,さまざまな商品が株仲間を経ずに産地から消費地へと直接送られるようになっていたのだ。1859年の横浜開港は,この動きに拍車をかけた。幕府(老中安藤信正)は,1860年五品江戸廻送令をだしたが,在郷商人や欧米商人の反発にあい,効果はなかった。

五品江戸廻送令
(1)内容=雑穀・水油・蝋・呉服・糸(生糸)は江戸を介すること
(2)目的=江戸の問屋商人の保護,物価の引き下げ,流通統制の回復

政治史 貿易開始にともなう経済混乱と物価騰貴は,下級武士たちのあいだに,条約調印をおこなった幕府や貿易相手の欧米人に対する反発を強め,条約調印に反対の意思を表明した孝明天皇への支持を広げていく。尊王攘夷運動が高まったのだ。一方で,幕府と朝廷との和解を実現させることで政治の安定をはかろうとする公武合体運動が展開する。

3 公武合体運動の展開

公武合体運動には2つのタイプがある。

2つの公武合体運動
(1)幕閣主導
 中心…老中安藤信正
 政策…孝明天皇の妹和宮を将軍家茂夫人に(和宮降嫁)
(2)雄藩主導
 中心…島津久光(薩摩)
 政策…勅使を伴い幕政改革を要求→文久の改革

 老中安藤が企てたのは,天皇家と将軍家とを婚姻関係で結びつけることにより幕府の権威を回復させることだった。朝廷では公家岩倉具視らが協力し,1862年和宮降嫁が実現した。ところが,尊王攘夷派から反発をうけ,1862年老中安藤は襲撃されて負傷し失脚した(坂下門外の変)。
 幕閣の指導力が低下するなか,雄藩のなかには,幕府と朝廷との和解を仲介することを通じて幕政における発言権を確保・強化しようとする動きがでてくる。その一つが,島津久光(薩摩藩主忠義の父)の公武合体策だ。
 島津久光は,1862(文久2)年4月,京都・伏見の寺田屋事件で藩内の尊王攘夷派を弾圧したあと,5月勅使大原重徳をともなって江戸に向かい,朝廷の権威をたてに幕政改革を求めた。その結果実施されたのが,文久の改革だ。

文久の改革
(1)もと一橋派の幕政への参加
 徳川慶喜→将軍後見職,松平慶永(越前)→政事総裁職
(2)新政策の実施
 参勤交代を3年に1回とする=大名統制の緩和
 松平容保(会津)を京都守護職に任命=尊王攘夷派への弾圧

 幕府の実権を握った徳川慶喜・松平慶永は,大名統制を緩和するとともに,尊王攘夷派への弾圧を強化して朝廷との協調をめざした。
 ところが,もともと将軍と大名の主従関係は将軍による知行地の給付と大名による軍役の負担によって成り立っており,参勤交代は軍役に準ずる奉公として将軍への忠誠を示す儀礼だった。つまり,参勤交代の緩和は将軍と大名との主従関係を変質させるものだった。

4 尊王攘夷運動の高まりと八月十八日の政変

 同じころ朝廷では,長州藩を中心とする尊王攘夷派が実権を掌握し,同1862年11月勅使三条実美を江戸へ派遣し,朝廷の権威をたてに攘夷の実行を幕府に求めた。これに対して,幕府では将軍家茂・徳川慶喜らが上京。天皇から政務の委任をうけることにより幕府の権威回復をはかったが,尊王攘夷派の抑圧には失敗し,1863(文久3)年5月10日を攘夷決行の日とすることを公約せざるをえなかった。
 攘夷決行の日,長州藩は下関海峡を通過する外国船に砲撃を加えたものの,幕府みずからが攘夷決行を率先する姿勢はみられず,このことは尊王攘夷運動の性格を変質させた。幕府を否定する方向へと次第に急進化したのだ。ところが孝明天皇は幕府支持の立場をとっていた。天皇と尊王攘夷派との立場のズレを利用して尊王攘夷派を朝廷から一掃したのが,薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変(1863年)だ。尊王攘夷派は,政変に前後して各地で挙兵したが,すべて失敗に終わった。

尊王攘夷派の挙兵
天誅組の変…1863年 大和(奈良県)の五条
         吉村寅太郎(土佐)・中山忠光(公家)
生野の変……1863年 但馬(兵庫県)の生野
         平野国臣(福岡)・沢宣嘉(公家)
天狗党の乱…1864年 筑波山(茨城県)で挙兵→京都へ向けて進軍
         藤田小四郎ら尊王攘夷派が政争に敗れて挙兵
禁門の変……1864年 長州藩を中心とする尊王攘夷派が京都に侵攻
         池田屋事件がきっかけ→薩摩・会津藩兵に敗北

 政変後,朝廷のもとで雄藩が国政を協議するという,新しい政治のあり方が登場した。徳川慶喜・松平慶永・島津久光・伊達宗城(宇和島)による参与会議だが,長続きせず,朝廷は徳川慶喜ら幕府首脳が掌握した。  こうして幕府は朝廷との和解を実現させ,さらに1864年朝廷の指令にもとづいて長州藩を征討するために全国の大名を動員し,長州藩を降伏させた(第1次長州征討)。


外交史 尊王攘夷運動の高まりが自由貿易の進展を妨げることを危惧したイギリス(公使オールコック)など欧米諸国は直接軍事力を行使した。

欧米諸国との軍事衝突
(1)薩英戦争(1863年)
 原因…島津久光一行が帰国する途中に,薩摩藩士が横浜郊外の生麦でイギリス人を殺傷(生麦事件・1862年)
 経過…イギリスが鹿児島で薩摩藩と交戦
   →以後,イギリスと薩摩藩が接近
(2)下関戦争(1864年)
 原因…長州藩による下関海峡での外国船砲撃に対する報復
 経過…イギリス・アメリカ・オランダ・フランスの四国艦隊が下関を攻撃


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