目次

13 政党政治の形成 −1918〜1925年−


政治史 大正後期は,米騒動に象徴される民衆運動(社会運動)の高まりと,ジャーナリズムでの民本主義の論調のなか,国民の意向を反映することのできる政治体制の実現をめざす動きが高まる。大正デモクラシーだ。

1 本格的な政党内閣の登場

 米騒動の責任をとって寺内正毅内閣が総辞職すると,立憲政友会総裁原敬が陸・海・外相以外を政友会党員で占める最初の本格的な政党内閣を組織した。米騒動という形での民衆運動の盛りあがりに直面して,元老山県有朋が政友会のもつ統合力に期待したのだ。
 原首相は藩閥でも華族でもない初めての首相だったため,平民宰相と期待されたが,原の関心は,政友会の党勢を拡張することによって藩閥官僚への対抗力を確保することに集中していた。そのため,積極財政を展開し,鉄道など交通機関の整備を進めてカネのばらまきによる支持基盤の拡大をはかった。こうした党利党略を優先する政策は政友会がらみの汚職事件をひきおこし,世論の不満が高まるなか,1921年原首相は暗殺された。

2 大正デモクラシーの高まり

(1)高等教育の充実 原内閣は,日本経済をになうエリート教育の充実をめざして高等教育機関の整備を進め,1918年大学令を公布して私立大学や公立・単科大学を大学として認可した。
(2)新中間層の増大 大戦景気による経済発達のなか,都市では銀行員・会社員などの事務的・管理的な仕事に従事するサラリーマンが増え,高等教育の充実がはかられるなかで知識人も増加した。これらのサラリーマン・知識人層を新中間層とよぶ。
 彼らを読者として,「大阪朝日新聞」などの新聞や「中央公論」「改造」などの総合雑誌が部数を大きくのばし,また,石橋湛山らの雑誌「東洋経済新報」は,徹底した自由主義の立場から軍備全廃・植民地放棄などを主張した(小日本主義)。こうして新中間層を担い手として大正デモクラシーの機運が高まる。
(3)普選運動 1918年吉野作造は福田徳三らとともに黎明会を組織し,吉野の指導をうけた東京帝大学生が新人会を結成した。彼らは国民の意向を反映をした政治運営を実現させることをめざして普通選挙運動(普選運動)に取り組み,友愛会などの労働組合も参加した。
 しかし原内閣は普選を時期尚早として拒否し,1919年選挙法を改正して納税資格を3円以上に引き下げるにとどめ,さらに小選挙区制を採用した。

普通選挙をめぐる対立
普通選挙の実現を要求
  黎明会(吉野作造・福田徳三ら)・新人会(東京帝大学生)・友愛会
  憲政会(総裁加藤高明)・立憲国民党(総理犬養毅)
↑↓
普通選挙に反対(時期尚早)
  原敬内閣(立憲政友会):1919年選挙法改正=3円以上に引き下げ

3 民衆運動の組織化

 米騒動は自然発生的な騒擾にすぎなかったが,新人会出身者など大卒のエリートが“民衆のために”を合言葉として啓蒙活動をすすめ,民衆運動の組織化を進めるきっかけとなった。さらに,ロシア革命が労働者や知識人に大きな夢と幻想をもたらし,その行動をかき立てていった。

1920年代の民衆運動(社会運動)
(1)労働運動
 友愛会(1912年鈴木文治)→大日本労働総同盟友愛会(1919年)
 →第1回メーデー(1920年)→日本労働総同盟(1921年)
               ↓左派が分裂
               日本労働組合評議会(1925年)
(2)農民運動
 小作争議の頻発→日本農民組合(1922年賀川豊彦・杉山元治郎)
(3)部落解放運動
 全国水平社(1922年西光万吉→「水平社宣言」
(4)婦人運動
 青鞜社(1912年平塚らいてう[雷鳥])…文芸団体
 →新婦人協会(1920年平塚らいてう・市川房枝)
 ↓ 治安警察法第5条撤廃運動…女性の政治活動の自由をめざす
 ↓ →1922年一部改正=女性の政治演説会への参加が実現
 婦人参政権獲得期成同盟会(1924年市川房枝)

 こうした民衆運動を指導していた知識人たちの間には社会主義思想が浸透していく。1920年新旧の社会主義者を集めて社会主義同盟が結成され,1921年には女性社会主義者の団体として伊藤野枝・山川菊栄らにより赤瀾会が成立した。しかし,ロシア革命を主導したボルシェヴィキ(ロシア共産党)を支持する共産主義派(山川均ら)と無政府主義派(大杉栄ら)とのあいだで対立が生じる。共産主義派が政党による中央集権的な統制をもとめたのに対し,無政府主義派は労働者の自主組織の自由な連合(アナルコ・サンジカリズム)を主張していた(アナ・ボル論争)。そうしたなかで社会主義同盟は1921年結社を禁止されるが,翌22年コミンテルン(世界単一の共産党)の日本支部として日本共産党が非合法のもとで組織された。
 他方,一君万民という天皇制の原理を徹底することによって社会的な平等を実現していこうとする国家社会主義派もいた。北一輝・大川周明らであり,彼らは1919年猶存社を結成した。北一輝が著した『日本改造法案大綱』は,のち陸軍皇道派の青年将校に影響を与えた。


外交史 日本は第1次世界大戦を通じてイギリス・アメリカに次ぐ大国としての地位を確保し,イギリス・アメリカとのあいだに利害対立をかかえながらも協調関係をつくりあげていった。

4 パリ講和会議

 1919年パリ(フランス)のヴェルサイユ宮殿で,第1次世界大戦に勝利した連合国と敗戦国ドイツとの講和会議が開催され,原敬内閣は全権として西園寺公望・牧野伸顕らを派遣した。その結果,ヴェルサイユ条約が締結された。

日本が獲得したもの
(1)中国山東省の旧ドイツ権益   ←→ 中国の反発:五・四運動
(2)赤道以北の南洋諸島の委任統治権

 ドイツの旧植民地が列国により分割され,日本は東アジア・太平洋地域に勢力を拡大した。南洋諸島(マリアナ諸島やパラオ諸島など)については,南洋庁を設置して統治にあたった。山東省権益については,パリ講和会議の最中,北京で権益の中国への返還などを要求する学生らの反日運動がおこり(五・四運動),中国政府はヴェルサイユ条約には調印しなかったため,日中間に懸案が積み残されることとなった。

国際的な平和機関の創設
アメリカ大統領ウィルソンが提唱
→国際連盟(1920年発足)  ←→ 日本の人種差別撤廃案は否決
  常任理事国:イギリス・日本・フランス・イタリア
  アメリカは未加盟(保守派の反対でヴェルサイユ条約を未批准)

 第1次世界大戦で極度に疲弊したイギリスが世界最大の帝国としての地位を失い,かわってアメリカが地位を向上させ,東アジア・太平洋地域では日本の勢力が強まっていた。そのため,大戦終結後も列国間の利害対立が激しく,海軍増強の競争(建艦競争)がくりひろげられた。
 しかし,第1次世界大戦は戦車・戦闘機・毒ガスなどの近代兵器がはじめて本格的に使用され,ヨーロッパ各国の国力を消耗させる総力戦として戦われた経験から,戦争を拒否する心情が強まっていた。戦争が外交の延長としての国家の正当な権利とされていた大戦以前とは違い,軍縮や平和の機運が高まったのだ。国際紛争を平和的に解決し,戦争の再発を防止しようとする試みが始まった。その第1歩が国際連盟だ。

5 東アジア・太平洋地域の国際協調体制

 1921年ハーディング米大統領が,東アジア・太平洋地域における国際秩序の安定にむけた国際会議の開催を提唱した(ワシントン会議)。
 アメリカの目的は,建艦競争を終わらせて財政負担を軽減させ,さらにイギリスや日本の勢力を抑制することにあった。それに対して日本は,戦後恐慌(1920年)の影響で海軍拡張が国家財政を圧迫していたため海軍軍縮に応じ,アメリカとの協調を保ちながら既得権益を確保しようとした。会議に参加せずに国際的な孤立を保つという選択肢はとらなかったのだ。全権は加藤友三郎海相・幣原喜重郎駐米大使ら(高橋是清内閣)。
 ワシントン会議で締結された諸条約により成立した東アジア・太平洋地域の新国際秩序をワシントン体制と呼ぶ。植民地支配秩序をやや曖昧なまま“今のまま”にしておくことによって列国間の緊張緩和をはかり,ゆるやかな協調関係をつくりあげていった。

ワシントン会議
(1)四か国条約(1921年イギリス・アメリカ・日本・フランス)
 太平洋地域の領土保全 →日英同盟を廃棄
(2)九か国条約(1922年英米日仏伊蘭ポルトガル・ベルギー・中国)
 中国の主権尊重・領土保全と門戸開放・機会均等
 →アメリカが石井・ランシング協定を破棄
(3)ワシントン海軍軍縮条約(1922年英米日仏伊)
 主力艦の保有量を制限 → 英米5:日3:仏伊1.67
(4)山東省権益の返還(1922年)
 日中間の個別協定により日本が山東省の旧ドイツ権益を中国に返還
(5)日本のシベリア撤兵宣言(1922年)
 →加藤友三郎内閣が北樺太を除いて撤兵を実施

 日本は,九か国条約で南満州・東部内蒙古における既得の特殊権益が保障されていたし,四か国条約と海軍軍縮条約により西太平洋地域での軍事的な優位性を確保していた。とはいえ,ワシントン体制には日本の勢力拡大を封じるという側面があったため,陸海軍などに不満が残っていった。
 中国に関しては,アメリカ流の機会均等主義−各国の経済活動の自由を相互に保障するというスタイル−が貫徹され,各国は中国内政への不干渉を約した。そして,経済活動に不可欠な平和と秩序を自力で樹立することが中国政府に求められ,中国は独立国としての地位を保障されつつも(中国も植民地にならなかった!),半植民地状態をみずから支えることになった。つまり,ワシントン体制は中国などのナショナリズムの犠牲のうえに築きあげられた国際協調体制だったのだ。

6 植民地統治の転換

 第1次世界大戦の終結に際して民族自決の理念がウィルソン米大統領により掲げられたことは,それがほとんど現実化しなかったとはいえ,大戦以前とは大きな違いだ。植民地をもつ帝国主義国が,植民地支配下の民族の独立・ナショナリズムを容認しようとする姿勢をみせ始めたのだ。

民族運動の高まり
朝鮮…三・一独立運動(1919年)
   3月1日京城で朝鮮独立宣言→日本からの独立運動が全土に拡大
   →原敬内閣のもとで武力鎮圧
中国…五・四運動(1919年)    5月4日北京で山東省権益の返還を要求する学生の抗議集会
   →全国的な排日・反帝国主義運動に発展

 日本でも,三・一独立運動や五・四運動など民族運動の高まりのなかで,植民地統治は,軍事力を背景とする武断政治から,同化政策を軸とする巧妙な植民地統治(文化政治)へと転換していく。
 朝鮮では朝鮮総督の任用資格を現役軍人から文官にまで拡大するともに,憲兵警察を廃止した。南満州では関東都督府を廃止し,1919年統治機関として文官を長官とする関東庁を新設するとともに,関東州(旅順・大連)と満鉄付属地の守備兵として関東軍を独立させた。台湾ではそれまでの武官総督制にかえて文官総督制を採用した。


経済史 大戦景気で浮かれていた日本経済も,大戦終結後は連続的な不況にみまわれる。そして,関東大震災が経済と人びとの心を揺るがせた。

7 戦後恐慌

 第1次世界大戦の終了にともなってヨーロッパ諸国の復興がすすむと,輸出が減退し,再び輸入超過に転じ,1920年には戦後恐慌にみまわれる。大戦景気のなかで急成長した成金には,銀行からの借り入れに依存して急激に経営を拡大した企業が多く,拡大した設備でそのまま生産・経営を続ければ生産過剰に陥り,経営危機に追い込まれかねない企業が続出したのだ。原内閣は日本銀行に特別融資をおこなわせて経済界を救済したが,かえって企業の合理化や経済界の整理が進まず,不況が長期化してしまった。

恐慌の連続
戦後恐慌(1920)→震災恐慌(1923)→金融恐慌(1927)→昭和恐慌(1930)

8 関東大震災

 追い打ちをかけるかのように,1923年9月1日関東大震災が東京・横浜の工業地帯を襲った。
(1)震災恐慌 経済界は混乱に陥った(震災恐慌)。企業は,期限を決めた支払証書(手形)を日常的に活用しているが,震災の被害により多額の手形が支払い困難となってしまったのだ。第2次山本権兵衛内閣(井上準之助蔵相)はモラトリアムを実施し,支払いが困難となった手形(震災手形)の取り立てを延期すると同時に,震災手形割引損失補償令を定めて日本銀行に4億3,000万円にのぼる融資をさせ,震災手形による銀行の損失を一時的に穴埋めした。ところが,戦後恐慌で生じていた不良債権が震災手形の名のもとに多数持ち込まれていた。つまり,不良債権が表面化することを日本銀行の特別融資で防ぐという結果になったのだ。そのため,震災手形の決済が進まず,銀行への信用不安を誘発していった。金融恐慌の遠因がここにある。
(2)民衆運動への抑圧 山本内閣は治安維持のために戒厳令を布告した。通常の行政・司法権を停止し,軍の管轄下においたのだ。そのもとで,社会主義の浸透に危機感を抱く軍隊・警察は民衆運動を弾圧した。労働組合の指導者が警察署で殺害され(亀戸事件),無政府主義者大杉栄・伊藤野枝夫妻が憲兵により殺害された(甘粕事件)。
(3)朝鮮人虐殺事件 韓国併合以降,朝鮮半島から仕事を求めて日本列島へ渡ってくる朝鮮人が増え,土木・炭坑労働などに従事していた。そして震災発生直後には,日本人の強い差別意識を背景として,朝鮮人の暴動などの根拠のないウワサ(流言)が広がるなか,警察・軍隊の指示のもとで自警団を組織した民衆が各地で多数の朝鮮人を虐殺した。


政治史 民衆運動が高まりをみせ,他方で関東大震災により人心が動揺するなか,政党内閣制が慣行として成立する。すでに元老は西園寺公望ただ一人となり,藩閥も雲散霧消してしまっている状況のもと,政党の政権担当能力と民衆を統合する力に期待がかかったのだ。

9 第2次護憲運動

(1)非政党内閣の連続 原暗殺をうけ,高橋是清蔵相が政友会総裁に就任して組閣したが,1922年政友会の内紛で総辞職して以降,加藤友三郎内閣,第2次山本権兵衛内閣と,海軍軍人を首相とする内閣が連続した。
(2)虎の門事件 1923年12月東京虎の門で摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)が無政府主義者により狙撃された(虎の門事件)。第2次山本内閣は普通選挙の導入を公約していたものの,責任をとって翌1924年総辞職したため,普通選挙の実施は立ち消えになった。
(3)第2次護憲運動 1924年1月枢密院議長清浦奎吾が貴族院を基盤として内閣を組織した。元老西園寺公望は,総選挙を目前にひかえ,選挙管理のために政党を超越した内閣を組織させようと考えていたのだが....
 清浦奎吾内閣の成立に対して,憲政会・革新倶楽部・立憲政友会が護憲三派を結び,民意を無視した特権内閣だとして倒閣運動を展開した(第2次護憲運動)。その過程で政友会は分裂し,内閣を支持する床次竹二郎ら政友会多数派が脱党して,政友本党を結成した。

第2次護憲運動
 清浦奎吾内閣=政友本党が支持(←立憲政友会が分裂)
  ↓↑
 憲政会(加藤高明)・革新倶楽部(犬養毅)・立憲政友会(高橋是清)
  主張:普選断行・貴族院改革・行財政整理

 1924年総選挙の結果,政友本党に代わって憲政会が第1党となり,護憲三派あわせて衆議院の過半数をしめた。そのため清浦内閣が総辞職し,かわって憲政会総裁加藤高明を首相とする護憲三派内閣が成立した。

10 政党内閣と普通選挙の実現

(1)普通選挙法と治安維持法 護憲三派内閣は,1925年公約どおり普通選挙法を制定し,納税資格を撤廃して男子普通選挙を実現した(第1回普通選挙が行われたのは1928年のこと)。
 他方では,普通選挙の実現やソ連との国交成立をきっかけとして共産主義運動が広まることを警戒し,治安維持法を定めた。国体の変革・私有財産制度の否認をめざす政治運動を取り締まろうとしたのだ。
(2)国際協調の進展 外相には幣原喜重郎が就任し,英米との協調・中国への内政不干渉を基本とする協調外交を展開した(幣原外交)。さらに,1925年日ソ基本条約を締結し,ソ連(1922年ロシアを中心として成立)との国交を樹立して極東地域の国際秩序の安定をはかった。
 また,宇垣一成陸相のもとで陸軍軍縮が実施された。4個師団が廃止されたのだが,それとひきかえに装備の近代化が図られ,中等学校以上の学校に軍事教練を導入するなど,陸軍の基盤の強化もめざされた。


文化史 大正デモクラシーの風潮・民衆運動の高まりを反映してプロレタリア文学がおこる一方,ヨーロッパで流行していた新傾向の文学・演劇が積極的に取り入れられた。新感覚派や築地小劇場だ。

11 大正後期の文化

(1)文学 プロレタリア文学と新感覚派が登場する。
 プロレタリア文学は,芸術作品と民衆の生活との融合をめざす文学潮流のひとつで,労働者の生活をリアルに描こうとした。1921年に発刊された雑誌「種蒔く人」を出発点とし,葉山嘉樹・徳永直(『太陽のない街』)・小林多喜二(『蟹工船』)らが活躍した。
 新感覚派は,プロレタリア文学に対抗する形で登場し,ヨーロッパの新傾向の文学に影響をうけながら,従来の素朴なリアリズムを排して新しい文学技法を追求した。横光利一や川端康成(『伊豆の踊子』・1968年ノーベル文学賞を受賞)が代表作家。
(2)演劇 1924年土方与志・小山内薫が築地小劇場を創立し,ヨーロッパの新傾向の演劇を取り入れていった。土方が私財を投じて劇場を設立したもので,自らの劇場をもつ新劇団体が初めて登場した。
(3)自由教育運動 文部省主導の画一的・統制的な公教育に対して,子どもの自発性・個性を尊重しようとする教育が登場し,自由教育運動と称された。沢柳政太郎が1917年に創設した成城小学校を先駆として,児童向け雑誌「赤い鳥」(1918年鈴木三重吉が創刊)による童話・童謡を創作しようとする運動,羽仁もと子が創立した自由学園などがある。


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